9-名のない影
夜、スマホに通知が届いた。
【供養対象:あなたの名前】
登録名:「羽柴恵子」
焚き上げ完了予定:48時間以内
ご注意:以後、「羽柴恵子」という名義は他の思念体により使用される可能性があります。
「……冗談、でしょ?」
恵子は笑おうとした。
でも、笑えなかった。
胸の奥が、どくどくと熱い――炭を飲み込んだように、重く、焦げるような痛みがある。
鏡の前に立つ。
呼吸を整え、名前を口にする。
「……私は、羽柴……恵子。はしば、けいこ」
その声に、鏡の中の自分が――瞬きしなかった。
違う。
“それ”は、自分の顔を模した別の何かだった。
*
翌日、クレジットカードの利用明細が届いた。
名義が「羽柴恵子」ではなく、
「羽嶋恵美子」になっていた。
役所に確認しても、データベース上に「羽柴恵子」は存在していないと言われた。
住民票がない。保険証がない。マイナンバーも見つからない。
――名前が、燃やされている。
証明が、ひとつずつ、灰になっていく。
SNSのアカウントにもログインできない。
メッセージアプリの友達一覧から、恵子の名前が消えていた。
かつて自分とやりとりしていた画面には、
ただ「不明なユーザー」とだけ表示されていた。
*
“声”を燃やした。
“子”を燃やしかけた。
そして今、“名前”が焼かれようとしている。
何も残らない。
自分の存在を形作るものが、言葉のひとつずつから失われていく。
瑞希に連絡を取ろうとした。
でも、スマホはもう使えなかった。
代わりに、ドアの下から一通の手紙が滑り込んでいた。
「羽柴恵子様 最終供養の儀へお越しください」
日時:本日 午後8時
場所:焚上村・火結び堂
*
――――夜。
再び焚上村に足を踏み入れた恵子は、
かつて訪れたときと違う“静けさ”に気づいた。
村には誰もいなかった。
灯りも消えていた。
ただ、神社の奥、朱塗りの社――火結び堂だけが赤く灯っていた。
中には、『恵子とそっくりの“誰か』がいた。
恵子は、一歩引いた。
だが“それ”が振り返り、口を開く。
「あなた、ずっと“私の顔”で生きてたよね」
それは、かつて燃やされかけた少女の姿だった。
恵子の子として生まれるはずだった存在。
顔は恵子に似ていた。
肌の下、焦げた骨が透けて見える。
「声も、顔も、名前も、私にちょうだい」
「あなた、燃やすの下手だったから」
「ねえ、“ママ”って呼ばせてよ」
*
その瞬間、鏡のような御札の表面に火が走り、
“羽柴恵子”という名前がゆっくりと灰になっていくのが見えた。
その灰を、少女は手で受け止め、
にやりと笑った。
「ありがとう
今日から、私が“羽柴恵子”」
恵子は、声を上げようとした。
けれど、喉が動かなかった。
口が開かなかった。
自分の声が、もう存在しなかった。
そして、少女が一歩踏み出したとき、
外の世界で、“羽柴恵子”名義のSNSアカウントが復活した。
投稿がされた。
笑顔の写真が載った。
「お焚き上げ、無事に済みました
これで、また前に進めますね」
その顔は、恵子ではなかった。
けれど誰も気づかない。
“名前”がある限り、誰かがその人として生きられる。
*
火結び堂の奥、黒い鏡の中に、
本物の恵子の姿が映っていた。
声も、名も、姿も焼かれた彼女は、
もう誰の目にも映らない“無名の影”となった。
だが、その目だけは、まだ焦げたまま見開かれていた。
「……やめて……」
その声なき祈りだけが、炎の奥に、まだ残っていた。




