8-燃えそこねた声
クローゼットの中から聞こえたのは、子供の笑い声だった。
甲高くもなく、かといって明るくもない。
湿った床板を走る小さな裸足の音と、微かに揺れる衣擦れの音。
「……子供なんて、いない……」
誰にも言っていないことだった。
いや、違う。
“誰にも言わなかったこと”だった。
*
――2022年の冬。
まだ、彼と一緒にいた頃。
恵子の身体の中に、一度だけ、新しい命が宿った。
妊娠に気づいたのは、6週目。
その時点で、すでに彼との関係は破綻寸前だった。
黙っていた。言わなかった。
何も伝えないまま、誰にも相談せずに、処置をした。
手術の日の記憶も、あえて消した。
「……もう、いないと思ってた」
その言葉を、何気なく部屋の中で呟いたことがあった。
スマホの通知は、その瞬間を正確に記録していた。
【供養対象:あなたの声】
「もう、いないと思ってた」
発言日時:2022年2月18日 午後8時37分
まさか、“それ”が燃え残っていたとは。
*
その夜、恵子は夢を見た。
深い森。
細い参道の脇を、煤で黒くなった地蔵が並んでいる。
その足元に、燃えそこねた紙片が積み上がっていた。
紙には、何度も書き直された同じ言葉。
「ごめんね」
「ありがとう」
「ごめんね」
「ありがとう」
燃えているのに、なくならない。
紙はいつまでもくすぶり続け、
その煙の中から、小さな手が伸びてきた。
焦げた爪。皮膚のない掌。
手のひらの中心に、小さな目玉がついていた。
それが、恵子を見上げる。
「ママ、いたの?」
その声に、恵子は崩れ落ちた。
「ちがう……ママじゃない……私は……」
「燃えたくなかった」
「だって、ママが名前をくれなかったから」
「名前のないまま燃やされると、どこにも行けないの」
煙が喉に入り、目が焼ける。
夢の中なのに、痛みがはっきりしていた。
「だからね――せめて、“顔”ちょうだい」
「ママの顔、ちょっとだけでいいから」
「そしたら……誰かになれるから」
目が覚めたとき、恵子は布団の上にうずくまり、
頬に爪で引っかかれたような三本の傷が刻まれていた。
枕元には、焦げたガーゼが置かれていた。
*
供養対象が“声”であることの意味。
それは、ただ言葉を焼くのではない。
“その声に宿っていた責任ごと焼き払う”ことだった。
だが、恵子はその命に名前を与えなかった。
語らなかった。
黙って、終わらせた。
だから、“それ”は記憶の底で焼け残った。
形を持たないまま、言葉だけを頼りに――
今、声を上げて這い出してきたのだ。
その日以降、恵子の鏡には、幼いシルエットが映るようになった。
振り返っても何もいない。
けれど鏡の中では、
子供が静かに、じっとこちらを見上げていた。
**
そして、次の通知が届いた。
【最終供養対象】
記憶:あなたが“思い出していないもの”
発声不要/選択不可
この対象は、あなたの名前と交換されます。
焚き上げ期限:あと3日
――自分の名前が、燃やされる?
自分自身が“供養対象”になる――
その意味を、恵子はまだ知らなかった。
けれど、“それ”は、すでに部屋の中で、
彼女の名前を使い始めていた。




