3-燃えたものは戻らない
朝、目が覚めて最初に見たものは、黒く煤けたボールペンだった。
昨夜、夢の中で見たはずのそれが、現実の手の中に握られている。
胸のあたりにぐしゃりと押し当てられていたせいで、パジャマの布地には細いインクの滲みが広がっていた。
「……嘘、でしょ」
ボールペンは、確かに恵子が“お焚き上げ便”に送ったものだった。
恋人が仕事で使っていた高級ペン。名前の彫り込みは火に焼かれたように消えていたが、重みと触感は間違いなかった。
まるで、灰の中から舞い戻ってきたかのように。
*
その日、職場のデスクに座っていても、思考が上滑りした。
メールの文章が頭に入らず、電話の声が遠い。
唯一、リアルに感じたのは――
指先から伝わるインクの匂いだった。
仕事用のボールペンから、かすかに焦げたような臭気がする。
ペンを外に置いていた間も、それは絶えなかった。
「羽柴さん、ちょっと顔色悪いよ、大丈夫?」
同僚に声をかけられても、うまく笑えなかった。
むしろ、自分が今“どんな顔をしているか”が分からなかった。
*
帰宅後――――――
封筒を送ってから、二日目の夕方。
玄関を開けた瞬間、空気が変わっていた。
焦げた匂いが、より濃くなっている。
しかも今度は、どこか“生臭い”。
魚でも肉でもない、人の汗と熱が混じったような匂い。
「……誰か、入った?」
疑いを込めて室内を見回すが、玄関の鍵にも窓にも異常はない。
ただ、リビングの床に、黒く濡れた跡が、ぽつんぽつんと点在していた。
まるで、誰かが焼け焦げた足で歩いたような痕跡。
鳥肌が立つ。
「やめて……やめて……私、ちゃんと手放したのに……」
そう呟いた瞬間だった。
棚の上のぬいぐるみが――ひとりでに床へ落ちた。
乾いた音。けれど、明確な“意志”がそこにあった。
拾おうとして、恵子は手を止めた。
ぬいぐるみの顔が、ほんの少しだけ変わっていた。
眼球が――なかった。
縫い込まれていた黒いビーズの目玉が、きれいにくり抜かれている。
その穴の奥に、赤く細い糸くずのようなものが、ずるりと這い出ていた。
そのとき、耳元で、誰かの声が囁いた。
「……返して。あの人は、まだここにいるから」
振り返っても誰もいない。
だが、次の瞬間。
壁の黒い跡が、文字になっていた。
灰色の指先でなぞったような筆跡。
「燃えたものは、戻らない
でも、お前が“思い出して”しまえば、それはまた、形を持つ」
その文の下に、もう一言。
「——恵子、まだ愛してるよ」
それは、元恋人がよく使っていた文体だった。
*
恵子は、震える手でスマホを取り、再び「お焚き上げ便」の封筒に記載されていた番号に電話をかけた。
コール音は続き――やがて、途切れた。
無機質な自動音声が再生される。
「こちらは『お焚き上げ便』、お心の整理は順調でしょうか?
次の“お品物”の回収に伺いますので、ご用意くださいませ」
その声は、妙に明るかった。
だが、その背後で、かすれた呻き声のようなものがノイズの中に混じっていた。
「……やめて……返してよ……」
恵子はそう呟いた。
でも、返ってきたのは、同じ言葉だった。
「返してよ……
あの人を……あの時のまま、燃やさないでよ」
スマホのスピーカーから漏れたそれは、まぎれもなく――自分の声だった。




