第8話 王の声に、仲間の「おはよう」が勝った夜
宿に戻った途端、足から力が抜けた。
「リオ!」
ヴェルディアが俺の腕を掴む。鼻から、血が一筋落ちた。
頭の奥で、誰かが呼んでいる。低く、甘く、粘ついた声だった。
『……ヴァ……』
「聞くな」
「分かってる。でも、勝手に入ってくるんだ」
【鑑定】
名称:リオ
状態:名縛り(解除率47%)
追記:防護残量 53%
追記:王は、あなたの名の前半を握っている
「井戸の底では40だったのに」
「王の声が、封印をこじ開けているのよ」
ヴェルディアの顔が強張った。
「解除率が100になれば、名は丸裸。王はその瞬間に、あなたを次の器にできる」
「……つまり、あと五十三回呼ばれたら終わりか」
「数え方が雑よ。でも、概ね合ってるわ」
ふざけた口調なのに、彼女の指は震えていた。
*
物音で、全員が部屋に集まった。
ガレスが、俺を壁にもたれさせる。
「顔が真っ白だ。何があった」
「王が、俺の名を呼んでる。止める方法は、名前を取り戻すことだけ。でも、それをやれば盾が尽きる」
「手詰まりか」
「ああ」
沈黙の中で、部屋の隅のバルトが腕を組んで言った。
「軍の古い言い伝えがある。戦死者の名は、仲間が叫ぶ限り、冥界でも消えない」
ヴェルディアの目が、ぴくりと動いた。
「……それよ」
「え?」
「盾の名前は『リオ』。母親が与えた、王の目を欺く名。その名を呼ぶ声が、王の声より多ければ」
彼女は、全員を見回した。
「盾は削れない。むしろ、厚くなる」
誰も、すぐには動かなかった。
最初に口を開いたのは、ガレスだった。
「……俺は、お前を、一度も名前で呼んだことがなかった」
「そうだったか」
「『鑑定士』か『おい』だ。三年間、ずっと」
ガレスの喉が、ごくりと鳴った。
「遅いのは分かってる。許されるとも思ってない。それでも、呼ぶ」
彼は、俺の正面に片膝をついた。
「リオ」
不器用で、少し掠れた声だった。
【鑑定】
解除率44%/防護残量 56%
数字が、確かに動いた。
「リオさん」
ミラの声は、繕い物を渡す時と同じ、優しい声だった。
解除率41%/防護残量 59%
「リオ」
バルトが、短く、低く。
解除率38%/防護残量 62%
最後に、セレスティアが、杖を胸に抱いたまま、唇を動かした。
「……おはよう、リオ」
毎朝、俺が杖に言っていた声と、同じ眠そうな調子だった。
その瞬間、杖が光った。
借り物ではない。彼女自身の魔力が、柔らかく、確かに灯った。
解除率28%/防護残量 72%
「……あ」
セレスティアの目から、涙がこぼれた。
「なんだ。そんな簡単なことだったの。三年間、毎朝、聞いていたのに」
許したわけじゃない。それでも、胸の奥の冷たい塊が、少しだけ緩んだ。
「みんな、ありがとう」
ヴェルディアが、そっぽを向いたまま呟いた。
「……私も、呼ぶわよ。仕方ないから」
「無理しなくても」
「リオ」
短く、ぶっきらぼうに。
解除率25%/防護残量 75%
「千年ぶりに、誰かの名前を、自分から呼んだわ」
耳の先が、真っ赤だった。
*
セレスティアが、小さな巻物を、俺の前に置いた。
「二つ目の借り物。偽造された功績の、原本よ」
開くと、こう書かれていた。
『パーティ功績欄より、同行者リオの名を全削除せよ。実行:魔導士セレスティア。承認:魔導院第三書記官ヴォルク』
「私の署名の隣に、ヴォルクの承認印がある」
セレスティアは、背筋を伸ばした。
「辞退届を偽造したのも、この男よ。式の日、王の前でこれを読み上げる。最初に嘘を認めるのは、私でいい」
ガレスが、目を見張った。
「お前、自分が罰を受けるぞ」
「順番の問題よ。あなたは、三つ目でしょう」
「……ああ」
ガレスは、初めて、少しだけ笑った。
「それともう一つ」
バルトが、窓の外を顎で示した。
「明日の夕刻が、あの老人の言った期限だ。式の日が本当の期日でも、王は兵を寄越す」
「署名には行かない。向こうから来るなら、迎え撃つ」
俺は、全員を見た。
「今夜は、休もう」
*
皆が眠った後、俺は宿の屋根裏の窓辺で、夜空を見ていた。
王の声は、もう聞こえない。数字は、25と75で止まっている。
「眠れないの?」
毛布を肩にかけたヴェルディアが、隣に腰を下ろした。
「母さんは、『いつか本当の名前を呼べる日まで』と言ったんだ。呼べる日が来ると、信じていたってことだ」
無意識に、口が動いた。
低く、ゆっくりした、波のような旋律だった。歌詞はない。ただ、音だけが流れ出す。
ヴェルディアが、はっと顔を上げた。
「リオ。今のは」
「分からない。でも、身体が覚えてる」
寝かしつけられる時の、手の温度と一緒に。
【鑑定】
名称:リオ
真の名:████████ → ████ア██
追記:旋律に呼応して、後半の名の一部が揺らいでいる
追記:母は、名の後半を、歌に隠した
黒い染みの下で、一文字だけ、光が瞬いた。
「『ア』……」
「歌えば、読めるのね」
「でも、続きが思い出せない」
俺は、もう一度、同じ旋律を口ずさんだ。
その時だった。
頭の奥で、あの粘ついた声が、ふっと途切れた。
静寂。
そして、別の声が、割り込んできた。
少年の、細くて、震える声だった。
『……その歌』
背筋が、凍りついた。
『エルナ叔母さんの、歌だ』
「……誰だ」
『ねえ。僕のこと、覚えてる? 小さい頃、一緒に、聞いたよね』
【鑑定】
追記:王の内側から、別の声が呼びかけている
追記:声の主の名は、████
「リオ」
ヴェルディアが、俺の手を握った。
その手は、冷たいのに、強かった。
少年の声は、泣き出しそうに続いた。
『お願い。続きを、歌って。……僕が、覚えている間に』
次の瞬間、粘ついた声が、轟くように割り込んだ。
『黙れ』
少年の声が、悲鳴と一緒に、掻き消えた。
窓の外の闇が、ぐらりと、揺れた。




