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第7話 古井戸の底で待っていた男は、自分の名前を捨てていた

日が落ちる頃、宿の裏口にガレスが立っていた。



「俺も行く」



「だめだ」



「罠かもしれないだろう。盾ぐらいにはなる」



「お前は、二つ目の借り物を考えていろ。それに、ロドリックは『兄』としか書いていない。大勢で行けば、来てくれなくなる」



ガレスは、唇を噛んで頷いた。



「……戻ってこい。お前の名前が戻る前に死なれたら、俺が謝る相手がいなくなる」



「縁起でもないことを言うな」



裏庭の隅から、ミラが小さな包みを差し出した。



「ポケットを縫い直しました。底が抜けていたので」



「いつ気づいたんだ」



「三年前からです。言えませんでした」



受け取った包みの中に、固パンが一つ入っていた。端が少し欠けている。



「……ヴェルディアの分だな」



「いちばん安いものを選びました」



ミラがようやく、少し笑った。



その隣で、セレスティアが杖に小声で話しかけている。



「……おはよう。今は夜だけれど、頼むわ」



杖の先が、ぽっと一瞬だけ灯った。



三人の視線が集まって、セレスティアは真っ赤になった。



「見ないでちょうだい!」



   *



東の古井戸は、街道から外れた枯れ野の真ん中にあった。



縄を伝って降りると、底は思ったより広く、乾いた土の匂いがした。



腰の紐に牙を差したヴェルディアが、にやりと笑う。



「歯が戻ってから、固パンがもっとおいしいのよ」



「今それを言うな」



「緊張をほぐしてあげているの」



ほぐれなかった。



井戸の底の壁に、人ひとりが通れる穴が開いていた。その奥で、角灯の明かりが揺れている。



椅子に座った白衣の老人が、こちらを見て、小さく手を挙げた。



「来てくれたか。……竜の娘も、一緒だね」



ヴェルディアの牙が、すっと老人の喉元に向けられた。



「動いたら、斬るわ」



「構わない。ただし斬れば、私の封印が弾けて、王に居場所が届く。それだけは、避けたい」



ロドリックは、疲れた顔で笑った。



「君が来てくれた理由は分かっている。私を、信じていないからだ。それが正しい」



俺は、角灯の光の中で、老人を見つめた。



【鑑定】

名称:ロドリック

真の名:████████

状態:自己封印(十五年)

追記:自ら名を捨てた者は、王に名で縛られない



「名前を、自分で封じたのか」



「そうだ。名のない者は、名で命じられない。王の傍に十五年いて、一度も縛られなかった理由だ」



老人は、膝の上の手を握りしめた。



「その代わり、私は、自分が誰だったかを、忘れかけている」



胸の奥が、わずかに痛んだ。



怒りは、まだある。母を地下に眠らせ、俺の名を割った男だ。



それでも、ここは、怒りで読む場所ではなかった。



「……読んでもいいか」



「やめなさい。名のない私に近づけば、君の盾が削れる」



「知りたいんだ。伯父さんが、どんな名前で呼ばれていたのか」



老人の目が、見開かれた。



俺は、そっと目を凝らした。



黒い染みの奥で、光の文字が、ひとつ、またひとつと浮かぶ。



「ロデリク……」



老人の肩が、震えた。



「ロデリク・ヴァン」



井戸の底に、薄く風が起きた。



ロデリクは、顔を覆った。



「……そうだ。それが、私の、名前だった」



声が、割れていた。



「エルナの兄の名だ。十五年ぶりに、聞いたよ」



盾は、削れなかった。



【鑑定】

名称:リオ

状態:名縛り(解除率40%)

追記:防護残量 60% ※変動なし



「……削れていない」



「願いで読んだからよ」



ヴェルディアが、牙を下ろして言った。



「怒りは刃になるけれど、願いは、何も奪わないの」



   *



「聞いてほしいことが、三つある」



ロデリクは、角灯を床に置いた。



「一つ。叙勲式の壇には、千年前の初代の契約がかかっている。壇上に立った者は、名の収穫に同意したものとみなされる。ガレス君の期日が式の日なのは、そのためだ」



「立たなければ、いいんだな」



「立たずに済めば、名は刈られない。ただし、勇者が壇に立たなければ、王はそのまま民の前で大義名分を作る」



「……ガレスは、壇に立つ前に、称号を自分で捨てなければならない」



「そうだ。三つ目の借り物は、壇の上では間に合わない」



俺は、ガレスの顔を思い浮かべた。



彼が捨てるのは、聖剣と功績と、称号だ。一つずつ、勇者という名前を外していく。



「二つ目。保管庫の延命術は、あと十日で切れる。エルナを眠らせている術は、私が毎月、命を削って延ばしてきた」



「……母さんが」



「間に合わせる。叙勲式の日に、必ず」



ロデリクは、俺を見た。



「三つ目が、いちばん大事なことだ」



老人は、懐から、小さな銀の首飾りを取り出した。



蓋が開く。中には、細密画があった。



十五、六歳の少年だった。穏やかな目をした、栗色の髪の少年。



「……誰だ」



「息子だ。レオン・ヴァン」



ロデリクの声が、低くなった。



「王は、千年、ヴァンの血の者を『器』にして生き延びてきた。器の体が寿命を迎えると、次の器に移る。顔が変わっても、中身は初代のままだ」



ヴェルディアが、息を呑んだ。



「……今の王の顔は」



「私の息子のものだ」



井戸の底が、静まり返った。



「十五年前、私は、器を取り替える儀式の前日に、お前の名を半分封じた。ヴァンの血で、名を読める子供が、もう一人いると、王に知られていたからだ」



「守るために」



「半分封じた子は、器にできない。そう思わせるためにだ。……息子を、救えなかった代わりに」



ロデリクの目から、涙が落ちた。



「あの子は、いま、目を開けたまま、王の中で眠っている。私にできたのは、お前の名を半分残すことだけだった」



言葉が、見つからなかった。



十五年前、母と伯父は、取り引きをした。



母は地下に眠り、伯父は息子を差し出し、その代わりに、俺は生き延びた。



「叙勲式は、名の収穫と、器の交換を兼ねている」



ロデリクは、静かに言った。



「今の器は、もう限界だ。式の日、王は、次の器を迎える。ヴァンの血で、名を読める目を持つ者を」



「……俺か」



「そうだ。だから王は、君に会いたがった」



俺は、手の中の細密画を、もう一度見た。



栗色の髪の少年は、笑っていた。



笑い方が、どこか、鏡の中の自分に似ていた。



「伯父さん」



「なんだね」



「俺は、署名には行かない。でも、叙勲式には行く」



老人は、はっとして顔を上げた。



「俺は、レオンの名前も、読む。王の中で眠っているなら、起こせるはずだ」



ヴェルディアが、にやりと笑った。



「いい顔になったじゃない」



「ただし」



俺は、ロデリクを真っ直ぐ見た。



「十五年分の説明は、全部聞かせてもらう。許したわけじゃない」



「ああ。それでいい」



ロデリクは、泣き笑いの顔で頷いた。



   *



縄を伝って地上に出ると、夜空は星で満ちていた。



ヴェルディアが、俺の袖を引いた。



「リオ。さっきの細密画の少年、見て」



「ああ」



「あの子の首に、金の鎖がかかっているの。王の紋章の」



背筋が冷えた。



「じゃあ、あれは、現在の」



「ええ。王が器にした後の、姿。つまり」



ヴェルディアの声が、小さくなった。



「あの子の名前を呼べば、王の中から、引き剥がせるかもしれない」



遠く、王都の方角で、鐘が鳴った。



低く、深く、三度。



俺は、掌を見た。



【鑑定】

名称:リオ

状態:名縛り(解除率40%)

追記:防護残量 60%

追記:王が、あなたの名を、呼び始めた



指が、凍りついた。



遠い鐘の音と一緒に、誰かが、俺の名前を、囁いている。



俺の、偽名の方ではなく。



黒く塗り潰された、本当の名前を。


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