第4話 老人は「名を返す」と笑った。その羊皮紙は、嘘で出来ていた
「さあ、受け取りたまえ。君の名前だ」
ロドリックは、宿の食堂で羊皮紙を広げた。
窓の外では、王家の兵が十人、宿を囲んでいる。
「リオ。読むまで触らないで」
ヴェルディアが、俺の袖を小さく引いた。
【鑑定】
名称:名の返還状
真の名:隷属契約書(偽装)
追記:署名した者の名は、王の所有となる
背中を、冷たい汗が伝った。
俺は、あえて声に出して読み上げた。
「署名した者の名は、王の所有となる。これが、あなたの言う『返還』か」
兵たちが、ざわついた。
先頭の兵長が、ちらりと老人を見る。その首元には、俺の目にだけ見える薄い紋様が浮いていた。
「……兵長。あなたの首の印も、同じ種類の契約だ」
「なっ」
「入隊の時に、署名したんだろう。『忠誠の誓約』と言われて」
兵長の顔から、血の気が引いた。
ロドリックは、ため息をついた。
「余計なことを。だが、結論は変わらないよ」
老人は、羊皮紙をテーブルに置いた。
「名の契約は、本人の意思なくして結べない。無理に結ばせれば、術者が名に斬られる。君も、さっき痛い目を見ただろう」
「……なぜ、それを」
「だから、友人を使うのだ」
食堂の隅で、ガレスが肩を揺らした。握りしめた右手の甲の紋様が、昨日より一回り広がっている。
「三日待とう。叙勲式の三日前だ。自分で署名に来るか、友人の名が消えるのを眺めるか。ゆっくり考えたまえ」
ヴェルディアの周りで、窓ガラスが、ぴしりと鳴った。
「老人。私の契約者を脅すなんて、いい度胸ね」
「竜の娘よ。私を砕けば、ガレス君の名縛りは、解けずに固定される。……やってみるかね」
ヴェルディアは、唇を噛んだ。
老人は、薄く笑って去っていった。兵たちも引いていく。ただ、兵長だけが、最後まで首元を押さえていた。
*
夜の厩舎で、ガレスは藁の上に座っていた。
「……殴りに来たのか」
「そのつもりだった」
俺は、隣に腰を下ろした。しばらく、馬の寝息だけが聞こえた。
「十五年前の干ばつの冬を、覚えてるか。俺とお前の村だ」
「……ああ。お前の手の火傷は、その時のだな」
「母ちゃんが焼いたパンを、自分の取り分だと誤魔化して、全部食った。弟の分もだ」
ガレスの声が、掠れた。
「弟は、その冬に死んだ。それ以来、決めたんだ。二度と、何も失わないと」
俺は、何も言わなかった。
「お前の力が流れてることには、気づいてた。魔導院に聞いたら『報酬計算の仕様』だと言われて、そのまま信じた。疑ったら、勇者でいる理由が、なくなる気がして」
「追放は?」
「王の命令じゃない。俺の意志だ」
ガレスは、顔を覆った。
「お前の目が、怖かった。隣に立たれたら、本物の力が誰のものか、みんなにバレる気がした」
許したい気持ちは、少しもなかった。それでも、憎み切れない自分に、腹が立った。
俺は、ガレスの右手を掴んだ。
【鑑定】
名称:ガレス
真の名:ガレス・ブレイズ
状態:名縛り(進行率41%)
解除条件:本人が「偽りの勇者」の名を、自ら捨てること
「読めた。解除の条件だ」
「…………」
「俺には、解いてやれない。お前が叙勲式の日、王の前で自分で捨てるんだ」
「そんなことをしたら、俺は」
「勇者じゃなくなる。そうだな」
俺は、手を離した。
「三日以内に決めろ。信じるかどうかは、お前次第だ」
背を向けた時、厩舎の影から、小さな足音がした。
「……リオさん」
法衣の袖を握りしめた、ミラだった。
「これを。ガレス様の机から、三年分、書き写しました」
差し出されたのは、分厚い帳簿の写しだった。
「あなたの報酬の、本当の金額が、載っています」
「ミラ。どうして」
「繕い物を、毎晩、ありがとうございました」
ミラは、深く頭を下げた。
「言えなくて、ごめんなさい。……ごめんなさいでは、足りませんけど」
ガレスが、息を呑む音がした。
「それと」
ミラは、少しだけ顔を上げた。
「セレスティア様は、毎朝、杖に『おはよう』と、言う練習をしています。まだ、一度も、成功していませんけど」
俺は、帳簿を受け取った。
「読んでから、返事をする」
今はまだ、それしか言えなかった。
*
宿の部屋に戻ると、ヴェルディアが、羊皮紙を睨んでいた。
「まだ捨てていないの?」
「もう一度、読みたくなった」
「罠だと分かっているのに?」
「罠の下に、本物が隠れていることもある」
偽装契約の文字の奥。インクの下に、別の文字が、薄く透けていた。
ひどく古い、丸みのある筆跡だった。
【鑑定】
名称:名の返還状・下書き
真の名:リオ・ヴァン
追記:ガルド・ヴァンの血を継ぐ、最後の者
時間が、止まった。
「……ガルドの、血?」
千年前、竜を斬れず、番犬にされた騎士。
彼は、最期に言った。『お前は、あの血の』と。
「ヴェルディア。これ、誰の字だ」
羊皮紙の端に、小さな一文があった。
『この子の名は、必ず返す。——母 エルナ』
俺は、母の顔を覚えていない。
背負い袋の中で、錆びた兜が、かたりと小さく鳴った。
ヴェルディアが、静かに言った。
「リオ。初代王が、あなたの名を欲しがる理由が、分かったわ」
金色の瞳が、細く揺れた。
「ヴァンの血は、竜の名を読める血。千年かけて、王が探し続けたもの」




