第3話 名前を書いた瞬間、王都に鐘が鳴った
迷宮を出ると、空が白み始めていた。
「……まぶしい」
ヴェルディアが、指の隙間から朝日を睨んだ。
「泣いてるぞ」
「泣いてないわ。目が勝手に潤んでいるだけ」
「それを泣くって言うんだ」
「うるさい鑑定士」
ぷいと背けた耳が、少し赤かった。
*
宿場町ミルトンの冒険者ギルドで、赤毛の受付嬢ドーラが、俺の顔を見て手を止めた。
「あんた、リオかい。三年前、勇者様の報告書にあった名前だ」
「……ああ。同行者だった」
「ずっと引っかかってたんだよ。あんたの『報酬辞退届』、毎回筆跡が違った」
ドーラは奥から、古い書類を引っ張り出した。
「見ておくれ。あんたが九割を辞退したことになってる」
俺は何も言えなかった。
一割弱は受け取っていた。だから、考えもしなかった。残りが、俺の知らないところで消えていたなんて。
「リオ」
ヴェルディアが、書類を顎で指した。
「読んで、疑って、それから信じなさい」
目を凝らす。
【鑑定】
名称:辞退届
真の名:偽造文書
署名者:魔導院 第三書記官
「……偽造だ。魔導院の書記官が、全部書いてる」
「やっぱりかい」
ドーラは唇を噛み、新しい登録用紙を差し出した。
「せめて手数料は取らないよ。名前を書いておくれ」
三年ぶりに、自分の手で自分の名前を書いた。
ペン先が紙を離れた瞬間、紙の端が、淡く光った。
「……今、光ったよな」
「ええ」
ヴェルディアの目が、細くなった。
「その紙、どこかに届いたわ」
*
登録の最初の依頼は、森の月光草の採取だった。
現れたのは、八頭の影狼だった。ギルドの情報にはない数だ。
「下がって」
ヴェルディアが前に出る。
「名前を呼んで」
「ヴェルディア」
銀の髪が逆立ち、金色の瞳が縦に裂けた。気配だけで、狼たちが一歩、後ずさる。
けれど、止まらなかった。
目が血走っている。首元が、黒く光っていた。
【鑑定】
名称:影狼
真の名:ハイロ(群れの長)
状態:魔導首輪による強制狂化
発行元:王家魔導院
「ヴェルディア、待て。こいつら、操られてる」
「殺さなくていいの?」
「ああ。俺がやる」
一歩、踏み出した。
「ハイロ。お前の名前は、ハイロだ」
狼の動きが、止まった。
「もう、命令は聞かなくていい」
首輪に、ぴしりと亀裂が走った。砕けた金属が、地面に落ちる。
八頭は一斉に伏せ、やがて、森の奥へ消えていった。
「…………」
ヴェルディアが、じっと俺を見ていた。
「なんだ」
「あなたの力のほうが、よっぽど怖いわ」
褒められているのか、よく分からなかった。
「でもね」
彼女は、少しだけ目をそらした。
「かっこよかったわよ」
*
報酬は銀貨三枚。
ヴェルディアは、露店の固パンを三十個、全部買った。
夕方、彼女は宿のベッドで唸っていた。
「……竜も、壊すのね」
「だから言ったろ」
水を差し出した、その時だった。
窓の外で、馬の嘶きが響いた。
「リオという鑑定士は、ここにいるか! 王家魔導院の使者である!」
白い馬車が、宿の前に止まっている。
降りてきたのは、勇者ガレスだった。
頬はこけ、目の下には黒い隈。鈍い鉄の剣を、杖のようについている。
その後ろから、白衣の老人が笑みを浮かべて降りてきた。
「魔導院長ロドリック。君を迎えに来たよ」
「なんで、ここが分かった」
「君が名前を書いたからだ」
老人は穏やかに言った。
「あの登録用紙は、君の名前にだけ反応する。書いた瞬間に、王都の鐘が鳴ったよ」
俺は、ガレスを見た。
ガレスは、目を合わせなかった。右手の甲に、黒い痣のような紋様が浮かんでいる。
【鑑定】
名称:ガレス
状態:名縛り(進行中)
追記:王の契約。期日までにリオを連れ戻せなければ、名を失う
「……お前」
ガレスの唇が、かすかに動いた。
声にはならなかった。けれど、確かに、こう読めた。
『すまない』
胸が、ざわついた。
ヴェルディアが、小さく囁く。
「リオ。あの老人も、見て」
【鑑定】
名称:魔導院長ロドリック
真の名:――
追記:十五年前、辺境の村で、一人の少年の名を封じた者
指先が、冷たくなった。
十五年前。辺境の村。
老人が、窓越しに俺を見上げた。
「君の本当の名前を、返しに来たんだよ」
その手には、黒く塗り潰された、古い羊皮紙が握られていた。




