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第2話 その名を呼んだ瞬間、王国の嘘が崩れ始めた

鎖に繋がれた少女は、手を伸ばしたまま、動かなかった。



金色の瞳だけが、俺を静かに見ている。



「名前をつけて、と言ったわね。正確には、読むの。奪われた名は、まだ私の中にあるから」



俺は震える足で、一歩近づいた。



【鑑定】

名称:――

真の名:████████████



文字が、黒く潰れている。



「さっき私は、怒りなさいと言った。あれは鍵の半分。残りの半分は、まだ教えていないわ」



「半分?」



「まずは、やってみなさい」



思い出す。偽りの扉。曖昧な鑑定。手切れ金。瓶の割れる音。



腹の底で、黒いものが煮えた。その怒りを、そのまま目に乗せる。



黒い染みが、ぐらりと揺れた。



次の瞬間、視界が赤く弾けた。



「ぐっ……!」



鼻から血が垂れる。頭を釘で打ち抜かれたような痛み。



「そこまで」



いつの間にか、少女は鎖の限界まで身を乗り出し、俺の頬に冷たい指を当てていた。



「怒りだけで読んだ名前は、刃になって、読んだ者を斬る。私に近づいた王家の狩人は、そうして全員死んだわ」



「……先に言ってくれ」



「言ったでしょう、半分だって」



少女は、いたずらっぽく目を細めた。



「残りの半分は、願い。この子のことが知りたい、という願い。それだけでいい」



怒りは、まだ腹の底にある。消えてはいない。



けれど一度それを脇に置いて、目の前の少女を見た。千年、暗闇で待ち続けた誰かを。



「……知りたい。君が、どんな名前で呼ばれていたのか」



黒い染みの奥で、光の文字がひとつ、またひとつと浮かび上がる。



「ヴェル……ディア」



鎖がきしんだ。



「ノクス……アルカディア」



俺は息を呑んだ。



「ヴェルディア・ノクス・アルカディア。それが、君の名前だ」



鎖が砕けた。



少女はよろめきながら立ち上がり、自分の両手を見つめ、胸に当て、ぽろりと涙をこぼした。



「私の、名前」



「ヴェルディア」



「もう一度」



「ヴェルディア」



千年ぶりの笑顔は、思っていたよりずっと幼かった。



   *



「待ってくれ。アルカディアって」



「気づいた? そうよ」



ヴェルディアは天井を見上げた。



「あなたの国の名前は、私の名前。初代王は私の名を奪って、国の名にしたの」



言葉が出なかった。



俺が生まれた国は、盗まれた名前の上に建っていた。



「名を奪われた竜は、力を使えない。名を持つ王国は、竜の力を吸って栄える。この国が千年、大きな災いを知らなかった理由よ」



ヴェルディアは急に、背筋を伸ばした。



「リオ。契約を結びたいの。名を呼んだ者と私は、魂が繋がる」



「ああ、わかった」



「待って」



手のひらが、俺の鼻先に突き出された。



「サインする前に、読みなさい」



【鑑定】

契約:竜名契約

内容:対等

力の流れ:双方向

解約:いつでも、双方から可能

偽り:なし



俺は、しばらく動けなかった。



三年前、ガレスに差し出された契約印を、俺は読まなかった。「報酬の計算用だ」という言葉だけを信じて。



「……偽りは、ない」



「当然よ」



ヴェルディアは、ふんと鼻を鳴らした。



「覚えておきなさい。読んで、疑って、それから信じるの。一度でも騙された者だけに許された、特権よ」



目の奥が、少し熱くなった。



「ありがとう、ヴェルディア」



「お礼はいいから。それ、食べ物?」



彼女は、床に散らばった保存食を指さしていた。



「干し肉と固パンだ。落ちてたやつだけど」



ヴェルディアは固パンを拾い、じっと見つめ、おそるおそるかじった。



金色の瞳が、見開かれる。



「かたい。しょっぱい。……おいしい」



「それ、街で一番安いやつだぞ」



「千年ぶりの食事なのよ!」



ぼろぼろ泣きながら、固パンを両手で抱えて食べ続ける。気高い竜王の威厳は、どこへ行ったのだろう。



俺は不覚にも笑ってしまった。笑ったのは、追放されてから初めてだった。



   *



その時、墓所の奥で、重い金属音が響いた。



「……来たわ。封印が解けて、番人が目を覚ましたの」



暗闇から、巨大な漆黒の鎧が歩いてきた。兜の隙間から赤い光が漏れ、胸には王家の紋章がある。



「下がって、リオ。まだ力が戻りきっていない」



「いや」



俺は前に出た。膝はまだ笑っている。それでも、目だけは逸らさなかった。



【鑑定】

名称:番犬ガルム

真の名:ガルド・ヴァン

状態:名縛り(偽名による隷属)



「ガルド・ヴァン。それが、あなたの本当の名前だ」



鎧が、ぴたりと止まった。



視界に記憶が流れ込んでくる。若き日の王と笑い合う騎士。竜を斬れと命じられ、剣を捨てた背中。名を奪われ、鎧に縫い込まれる最後の叫び。



「千年前、あなたは初代王の親友だった。竜を斬れなくて、番犬にされた。……もう、番犬じゃない。あなたは、騎士だ」



鎧が、がしゃりと膝をついた。兜が外れる。中は空洞だった。



それでも、穏やかな笑みが見えた気がした。



『……その目。そうか。お前は、あの血の』



言いかけて、声が澄んでいく。



『時がない。二つ告げよう。一つ。あの扉は、竜の帰還門。勇者の聖剣に宿る牙が、主の気配に引かれ、自ら扉を開かせたのだ』



「聖剣が……自分から?」



『もう一つ。初代王は、まだ死んでいない。千年、名を喰らい、顔を変えて、王座にいる』



空気が凍った。



『竜の娘を頼む。そして、少年。お前の名は』



光の粒が、言葉の続きを奪っていった。



あとには、錆びた兜だけが残った。



「……お前の名は、って。何だ」



「ガルドは、最後まで言えなかったのね」



ヴェルディアは兜に小さく頭を下げ、それから、俺の胸を指した。



「リオ。そこ」



砕けたはずの契約印の跡が、微かに光っている。



【鑑定】

名称:同行契約・残滓

発行元:王家魔導院

契約者:勇者ガレス

追記:供給された力の八割は勇者へ、残る余剰は玉座へ還元



喉が、ひどく乾いた。



「表向きは仲間への強化。裏では、余った分が全部、王に流れていたのね」



ヴェルディアが淡々と言う。



「ガレスは駒。聖剣を輝かせていたのは、あなたの力と、聖剣の中の私の牙。使い捨てるつもりで、飼われていたのよ」



ふと、思い出した。



「……偽りの扉。俺の鑑定には、『偽り』としか出なかった。曖昧だと、さんざん責められた」



「あれは、王家が帰還門に掛けた偽名よ。覚醒前のあなたには、人間が貼った名札しか読めなかった」



ヴェルディアが、くすりと笑う。



「あなたの鑑定は、間違っていなかった。見えたものを、そのまま言っただけ」



胸の奥に、小さな灯りがともった。



ずっと、俺が悪かったのかと思っていた。



   *



「ねえ、リオ」



ヴェルディアが、ふと首をかしげた。



「あなた、自分の名前は見た?」



「自分の?」



考えたこともなかった。鑑定は、他人と物を見るものだと思っていた。



俺は自分の掌を見つめ、目を凝らした。



【鑑定】

名称:リオ

真の名:████████

状態:名縛り(解除率12%)



指が、凍りついた。



「……俺も、黒塗りだ」



「やっぱり」



ヴェルディアは、静かに言った。



「同行契約の解除で、封じられていた名の一部が緩んだのよ。つまりあなたは、生まれた時から、誰かに名前を封じられていた」



「誰が。何のために」



「それは、あなたの名前が教えてくれるわ」



金色の瞳が、わずかに細くなった。



「叙勲式は、七日後だったわね」



「……ああ」



「行きましょう。あなたの名前と、この国の嘘を、読み上げに」



差し出された手を、俺は強く握った。



「今日から、あなたは私の目。私は、あなたの牙よ」



   *



その夜。王都の宿屋。



迷宮は王都から馬車で半日。ガレスたちは日暮れ前に戻っていた。



ガレスは剣を磨いていた。何度磨いても、刃は鈍い鉄の色のままだ。



「なぜだ……!」



壁に叩きつけた剣が転がる。その手の甲に、古い火傷の痕があった。



辺境の村が干ばつで潰れかけた年、母が焼いたパンを自分の取り分だと誤魔化し、泣きながら食べた夜の痕だ。



二度と、あんな夜は嫌だった。勇者になる。何をしてでも。



そのために、使えるものは全部使った。



「……使える、もの」



呟いて、顔をしかめた。



扉が叩かれ、セレスティアが青い顔で入ってきた。



「魔力が戻らないの。それに、詠唱が頭から出てこない。三年間、一度も詰まったことなんてなかったのに」



「何が言いたい」



「毎朝、あの子が杖に声をかけていたでしょう。『おはよう、今日も頼むぞ』って」



セレスティアの声が、掠れた。



「あれが、私の詠唱の最初の一節だったのよ。ずっと、そうだったの。気づきもしなかった」



廊下の隅では、ミラが膝を抱えていた。繕い跡だらけの法衣の袖を、握りしめて。



毎晩、誰が縫ってくれていたのか。三年間、一度も礼を言わなかった。



「……リオさん」



呟きが、夜に溶けた。



窓から、白い鳥が舞い込んだ。足に、赤い封蝋の手紙。



ガレスは乱暴に封を切った。



『契約が一方的に切断された。至急、報告せよ。叙勲式までに、あの鑑定士を連れ戻せ。さもなくば、お前の名は勇者の名簿から消える』



署名は、王家魔導院。



「……連れ戻せ? あの無能を?」



セレスティアが、震える声で言った。



「リオを追放しろと、王は命じていなかったのね」



鈍い鉄の剣が、床に落ちて、からんと鳴った。



   *



同じ夜。王城、玉座の間。



月明かりの中、玉座の男は若く見えた。だが、その瞳だけは、千年を知っている色をしていた。



男の爪の先に、ぴしりと細い亀裂が走る。



男はそれを眺め、ゆっくりと口の端を持ち上げた。



「……呼ばれたな。千年ぶりに、あの娘の名が」



魔導院の長が、青ざめて膝をつく。



「陛下。鑑定士の契約が」



「知っている」



男は立ち上がった。



「あの鑑定士に、会いたくなった。丁重に、迎えに行かせろ。……ああ、それと」



男は、懐から古い羊皮紙を取り出した。



そこには、幼い子どもの名前が、一行だけ書かれていた。



黒く、塗り潰されていた。



「あの子の名は、まだ私の手の中だ」


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