第19話 橋は二つ架かった。父は、最後の一文字で俺を呼んだ
北の地平線が、黒い海のようにうねっていた。
壊れた名の群れが、町へ押し寄せてくる。形はない。ただ、飢えだけが波になっていた。
「橋を立てる」
ハルトが、杖を地面に突いた。
「リオ。お前は東側、私は西側だ。群れが間を通る間、名を開き続けろ」
「分かった」
「開けば、飢えがお前の名を舐める。耐えられなくなったら」
「耐える」
「……兄と同じ言い方だな」
ハルトは、苦笑して西へ歩いていった。
背後で、ガレスが鉄剣を構えた。
「俺は、お前の前に立つ。壁だ」
「ああ。頼む」
セレスティアが杖を掲げる。ミラが結界を張る。バルトの号令で、千の兵が円陣を組んだ。
ヴェルディアが、俺の隣に立った。
「離さないわよ」
「痛い。強い」
「竜の握力よ。我慢しなさい」
*
群れが、橋の間に入ってきた。
俺は、胸の奥の扉を、ゆっくり開いた。
冷たい風が、名前の中へ流れ込む。
飢えが、俺の名を舐めた。
【鑑定】
名称:リオ(ヴァンデ・アルク)
状態:橋、展開中
追記:通過した壊れた名は、核に戻る。応答には、呼ぶ者が要る
「核に戻るだけか。名前に戻らない」
「呼ぶ人が要るのよ。第14話と同じ」
ヴェルディアが、歯を食いしばった。
「でも、三万よ。誰が、全部呼ぶの」
答えは、群れの向こうにあった。
町の防壁の上に、人々が並んでいた。
ドーラが叫んだ。
「名簿を出しな! 町の古い名簿に、いなくなった子の名前が、全部載ってる!」
冒険者たちが、羊皮紙を抱えて走る。老婆が、震える声で読み上げた。
「ヨナス・マイヤー。鍛冶屋の三男」
群れの一つが、ふわりと光って、人の形になった。
『……ただいま』
町中が、息を呑んだ。
名簿の名が、次々に呼ばれる。呼ぶのは、家族でも、隣人でも、通りすがりでもよかった。
「ケイト・オルソン!」「トマス・リード!」
第12話で、民衆が名を呼び合って王を押し返した、あの波だった。今度は、返すための波だった。
群れが、少しずつ、人に戻っていく。
*
けれど、数時間は長かった。
ガレスの鉄剣は、とうに折れていた。拳で、飢えを殴り返している。
「まだだ! まだ、立てる!」
血だらけの背中が、俺の前にあった。
セレスティアの炎が、細くなる。
「……まだ、二度目の朝の詠唱が、残ってるわ」
杖に、囁く。
「おはよう。今日も、頼むわ」
炎が、再び燃え上がった。自分の魔力だった。
ミラの結界に、ひびが入る。
「リオさんの名前を、呼んで! みんなで!」
「リオ!」
千の兵が、叫んだ。
盾が、また、厚くなった。
だが、西の橋の光が、弱まっていた。
ハルトの膝が、がくりと落ちた。
黒い腕が、肩まで広がっている。
「ハルト!」
「大丈夫だ。……まだ、立てる」
「違う。名前が、もう」
ハルトの目から、光が薄れた。
その時、群れの最前線から、あの影が、歩いてきた。
片腕のない、痩せた男。
橋の中央で、立ち止まった。
【鑑定】
名称:――
真の名:――(ほぼ、失われている)
追記:最後の一文字は「リ」
男は、俺を見ていた。
空洞のような目だった。それでも、唇だけが、動いていた。
『……ご、はん、よ』
喉が、焼けた。
「父さん」
男は、首を傾げた。
『……だれ、だっけ』
ヴェルディアが、俺の手を握りしめた。
「リオ」
「分かってる」
俺は、胸の奥の扉を、もう一段、開いた。
「ヴェルディア。呼んでくれ」
「え」
「俺の名前を。俺が、父さんを呼べるように」
彼女の目が、潤んだ。
「……リオ」
「もっと」
「リオ。リオ!」
背中が、熱くなった。
俺は、父の前に、一歩、進んだ。
「聞いてくれ」
男の空洞が、揺れた。
「あなたの名前は、読めない。ほとんど、残っていない。でも」
【鑑定】
追記:名の欠片「リ」は、息子の名から取ったものではない
追記:息子が生まれる前から、父の名の一部だった
追記:父の真の名は、リヒト・ヴァンデ
「……リヒト」
男の肩が、びくりと跳ねた。
「リヒト・ヴァンデ。母さんが、毎晩、あなたの名前を、呼んでいた」
『……え、る……な』
「そう。エルナだ。あなたの、奥さん」
男の目の奥で、何かが、ぽつりと灯った。
「母さんの伝言を、預かってきた」
俺は、震える声で、言った。
「ご飯よ、リヒト」
その瞬間。
男の空洞に、光が満ちた。
『……はい』
涙が、頬を伝った。
『今、行く』
*
光が、広がった。
橋の間を、通っていた群れが、一斉に、ほどけた。
壊れた名が、空へ昇っていく。
三万の、壊れた名が。
その中で、父の身体が、ゆっくりと、輪郭を取り戻していった。
痩せた、老けた、けれど、確かに、目元が俺に似た、男だった。
「……リオ」
「父さん」
父の腕が、震えながら、俺を抱いた。
十五年分の、骨ばった腕だった。
「大きく、なった」
「母さんも、同じこと、言ってた」
「そう、か」
父は、泣き笑いの顔で、言った。
「エルナ。生きて、いるんだな」
「ああ。王都で、待ってる」
ハルトが、這うように近づいてきた。
黒い腕が、少しずつ、色を取り戻している。
「兄さん」
「ハルト。……ずいぶん、老けたな」
「兄さんに言われたくない」
兄弟は、顔をくしゃくしゃにして、笑った。
ガレスが、へたり込んだ。
「……勝った、のか」
「勝ったとは、言わないわ」
ヴェルディアが、牙を鞘に収めた。
「返したのよ」
夜が、明けた。
朝日が、ミルトンの町を、金色に染めていた。
防壁の上で、ドーラが、泣きながら叫んでいた。
「おかえり! おかえり、みんな!」
町中の人々が、空へ昇る光に、名前を呼んでいた。
*
その夕方、町の外れの丘で、俺は、父と二人で並んで座っていた。
父は、焼きたてのパンを、不器用にかじっていた。ガレスが焼いたパンだ。少し、焦げている。
「固いな」
「しょっぱいだろ」
「ああ。……うまい」
父は、目を細めた。
「十五年、味を、忘れていた」
「これから、たくさん、食べればいい」
「そうだな」
父は、パンを半分に割って、俺に差し出した。
俺は、受け取って、かじった。
かたくて、しょっぱくて、少しだけ、甘かった。
その時だった。
丘の下から、小さな足音が、駆けてきた。
ミラだった。顔が、青ざめていた。
「リオさん、リヒトさん。大変です」
「どうした」
「王都から、急使が。……ロデリクさんが、倒れました」
「伯父さんが?」
「命に別状は、ありません。でも」
ミラは、息を整えて、言った。
「倒れる前に、言い残したんです。『王の器は、レオンだけではなかった』と」
父の手から、パンが、落ちた。
「……もう一人、いたのか」
「はい。名簿の最後の一人。……名は、書かれていませんでした」
夕陽が、丘を赤く染めていた。
王都の方角で、また、鐘が、割れた音で鳴り始めた。




