第18話 町を守るのは勇者じゃない。ギルドの受付嬢と、元勇者だった
ミルトンの町に着いたのは、二日目の夕暮れだった。
災いの到達まで、あと一日。
町の入口には、急ごしらえの柵が並んでいた。木材を運ぶ冒険者、荷車を押す商人、石を積む子どもたち。
その中心で、赤毛の中年女性が、怒鳴っていた。
「そこ、杭が浅い! 打ち直し!」
「ドーラさん、もう三回目っす!」
「四回目でも五回目でもやるんだよ!」
ギルドの受付嬢ドーラだった。腕まくりをして、金槌まで握っている。
ガレスは、柵の手前で足を止めた。
彼は、前日の朝に、一人で町へ着いていた。今日は、柵の外側で、ずっと土を掘っていたのだ。両手は泥だらけで、爪が割れている。
「……手伝いに来ました」
ドーラは、振り向いた。
泥だらけの男を、上から下まで眺めて、眉をひそめた。
「あんた、勇者様じゃないか」
「違います」
ガレスは、深く頭を下げた。
「元です。……ガレス・ブレイズ。ルカの兄です」
「ふうん」
ドーラは、金槌を肩に担いだ。
「三年間、あんたらの報告書を受け取ってたよ。リオの報酬欄の筆跡が違うのも、全部、気づいてた」
「…………」
「止められなかった私にも、責任はある。だから、謝罪は、いらないよ」
ガレスは、顔を上げなかった。
「それでも、言わせてください。気づいてくれて、ありがとうございました」
「…………」
「あなたが、あの偽造を覚えていてくれたから、リオは、証拠を手に入れられた」
ドーラは、ふっと息を吐いた。
「……掘ったのは、あんたかい? 外の堀」
「はい」
「深さが、完璧だ。手際もいい」
彼女は、金槌の柄で、ガレスの胸をこつんと叩いた。
「三年間の無茶で、体力だけは、まともなんだね。使えるものは、使わせてもらうよ。働きな」
「はい」
ガレスは、泥だらけの顔で、笑った。
*
夜、町のギルドの食堂で、俺たちは作戦を練った。
俺、ヴェルディア、ガレス、ミラ、セレスティア、バルト、ドーラ。そして、ハルト。
王都の兵一千は、明朝、到着する。残りは、首の印の解除が間に合わなかった。
「兵は一千。町の冒険者が、二百。民兵が、三百」
バルトが、地図に石を置いた。
「災いの数は、推定で、三万」
「桁が違うわね」
ヴェルディアが、固パンをかじった。
「竜の力で、ひと薙ぎすれば」
「だめだ」
ハルトが、静かに遮った。
「壊れた名を斬れば、永遠に消える。それは、兄の願いに反する」
「じゃあ、どうするの」
「橋を、二つ立てる。リオと、私。向かい合って」
ハルトは、地図の上に、二本の線を引いた。
「災いの進路の、両側に。群れが、橋の間を通る時、飢えが、名前に戻る」
「通る時だけ、ですか?」
ミラが聞いた。
「そうだ。橋は、通過する間しか、作用しない。群れ全体が通り抜けるまで、立っていなければならない」
「どれくらい」
「……数時間だ」
沈黙が落ちた。
名前が、開きっぱなしになる。数時間。
その間、護る者が必要になる。
ガレスが、ゆっくり立ち上がった。
「俺が、やる」
「ガレス」
「リオの前に、立つ。盾じゃなく、壁として」
彼は、にやりと笑った。
「第9話で、お前に言われたろう。『それは盾じゃなくて壁だ』って。壁なら、得意だ」
セレスティアが、杖を握って立ち上がった。
「私が、後ろから援護する。数時間、炎を切らさないわ」
「ミラは、癒しを」
「はい」
「バルト、兵の指揮は、あなたに」
「任せろ」
全員が、頷いた。
ヴェルディアが、最後に言った。
「私は、リオの隣に立つ」
「え」
「橋の柱になるって、言ったでしょう」
彼女は、俺の手を、ぎゅっと握った。
「離さないわよ」
*
その夜遅く、俺は、一人で宿の外に出た。
ミルトンの夜空は、澄んでいた。北の空だけが、黒い。
背後に、足音がした。
ハルトだった。
「眠れないか」
「あなたこそ」
「腕が、疼くんだ」
ハルトは、黒く変色した腕を、月明かりにかざした。
「リオ。ひとつ、話しておきたいことがある」
「何ですか」
「兄が、国境の外で、何をしているか」
俺は、息を止めた。
ハルトは、静かに続けた。
「兄は、十五年間、災いの最前線に、立っていた。災いに、名前を呼びかけ続けていたんだ」
「名前を、呼ぶ」
「壊れた名は、応えない。でも、兄は、毎日、呼び続けた。『ご飯よ』と」
胸が、どくんと鳴った。
「……母さんの、あの言葉」
「そうだ。兄は、エルナの言葉を、真似ていた」
ハルトの声が、少しだけ、柔らかくなった。
「ずっと、一人だった。それでも、毎日、呼んだ。壊れた名が、ひとつでも、振り向く日のために」
「振り向いたんですか」
「一度だけ」
ハルトは、遠くを見た。
「三年前。小さな名が、ひとつ、だけ。『……おとうさん』と、答えた」
「…………」
「兄は、それを、聞いた日から、笑うようになった」
涙が、勝手に、こぼれた。
顔も知らない父が、十五年、暗闇で、誰かの名前を呼んでいた。
「ハルト」
「ん」
「明日、父さんに、会えますか」
男は、少しだけ、黙った。
「……会える。ただし」
彼は、俺の肩に、手を置いた。
「兄は、もう、名前を、ほとんど失っている」
「え」
「十五年の呼びかけで、自分の名を、削ってしまった。災いの前に立った時、兄が、リオを、覚えているかどうか」
手が、震えた。
「それでも、会いに行く」
「ああ」
ハルトは、頷いた。
「兄は、君の名前だけは、最後まで、手放さなかったはずだ」
*
夜明け前。
町の外壁に、全員が、並んで立った。
北の地平線に、黒い海が、見えた。
災いだった。
壊れた名の群れが、地平線を、埋めている。形はない。ただ、飢えた気配だけが、波のように押し寄せてくる。
ヴェルディアが、牙を抜いた。
ガレスが、安物の鉄剣を、握り直した。
ハルトが、杖を、地面に突いた。
「行くぞ」
俺は、目を凝らした。
群れの最前線に、ひとりだけ、立っている影があった。
黒い雲の下、他の影とは違う、小さな、人間の形。
片腕のない、痩せた男だった。
【鑑定】
名称:――
真の名:――(ほぼ、失われている)
追記:「アルク」の名の、三人目
追記:十五年、前線に立ち続けた者
追記:最後に残った名の欠片は、「リ」の一文字
その一文字を、俺は、知っていた。
「……リオ」
男の唇が、かすかに動いた。
声は、聞こえなかった。
けれど、確かに、そう、読めた。




