第17話 北の灯りは、俺と同じ「橋」の名を持っていた
北の稜線に灯る光は、ゆっくりと王都へ近づいていた。
「行く」
俺が言うと、ヴェルディアは牙を腰に差し直した。
「一人で?」
「君と二人だ。ただし、城壁の外までだ」
「ふうん。信用されているのね」
「読んでからだ」
「それでいいわ」
*
城壁の外の枯れ野に、その人物は立っていた。
旅装の男だった。四十代半ば。黒髪に白いものが混じり、片腕に古い包帯を巻いている。背には、使い込まれた細い杖。
男は、俺たちを見ると、静かに両手を上げた。
「武器はない。話をさせてほしい」
ヴェルディアの牙は、下りなかった。
「名乗りなさい」
「それは、君の鑑定士に読んでもらうほうが早い」
男は、俺をまっすぐ見た。
その目が、鏡で見慣れた自分の目に、似ていた。
俺は、息を整えて目を凝らした。
【鑑定】
名称:旅の語り部
真の名:ハルト・ヴァンデ
状態:名縛り(自ら封印、十五年)
追記:「アルク」の名を持つ者の、血縁
追記:偽りなし
「……血縁」
「そうだ」
男は、苦しそうに笑った。
「正確には、君の母エルナの、夫の弟だ。つまり、叔父にあたる」
父ではなかった。
胸の奥で、期待と落胆が、同時に弾けた。
「父は、どこにいる」
「まず、一つ聞かせてほしい」
ハルトは、杖を握り直した。
「千年の守りは、切れたんだな」
「ああ」
「災いは、あと三日で来る」
「知ってるのか」
「私は、その災いを、十五年、北の国境で食い止めていた」
空気が、止まった。
*
「十五年前、ロデリクが、君の名を半分封じた夜」
ハルトは、枯れ野の風に目を細めた。
「私の兄、つまり君の父は、王の器の儀式を止めるため、城へ向かった。そして、戻らなかった」
「……父さんは」
「死んではいない。王の手で、国境の外へ追放された。名を封じられたまま、災いの正体と戦っている」
ヴェルディアが、鋭く言った。
「災いの正体?」
「名前を失った者たちの、残りカスだ」
男の声が、低くなった。
「魔王は、返されなかった名の溜まりだった。しかし、返される前に、壊れた名もあった。壊れた名は、渇きを失って、ただの飢えになる」
「飢え」
「そう。名前を持たない、ただの空腹の群れだ。国の守りが消えた今、それが、一斉に、この国へ流れ込んでくる」
【鑑定】
名称:千年の遅れた災い
真の名:――(壊れた名の群れ)
追記:呼んでも、応えない。返せない
追記:返せない名は、斬るしかない
「返せない」
喉が、ひりついた。
俺のやり方は、通用しない。
「じゃあ、どうするの」
ヴェルディアが聞いた。
「斬るしか、ないのかしら」
「斬れば、壊れた名は、永遠に消える」
ハルトは、静かに首を振った。
「だが、父さんは、別の方法を、探していた。……私は、それを、託されに来た」
彼は、懐から、古い羊皮紙を取り出した。
角が擦り切れ、血の染みがついている。
「あなたの父が、最後に書いた手紙だ」
受け取る手が、震えた。
羊皮紙の最初の一行は、短かった。
『リオへ。この手紙を読む頃、お前は、もう、自分の名前を知っているだろう』
*
手紙を、最後まで読む前に、胸が詰まって、いったん閉じた。
ヴェルディアが、俺の袖を、そっと引いた。
「大丈夫?」
「……ああ。大丈夫じゃないけど、読む」
深呼吸して、もう一度開く。
『壊れた名を、返す方法がある。ただし、一人の「橋」では足りない。橋は、二つ必要だ』
二つ。
『お前と、もう一人。同じ「アルク」を持つ者が、向かい合って立つこと。それが、飢えを、名前に戻す唯一の道だ』
「もう一人の、アルク……」
その時、ハルトが、静かに言った。
「それが、私だ」
俺は、顔を上げた。
「私も、アルクの名を持つ。ただし」
男は、包帯の腕を、ゆっくりとほどいた。
現れたのは、黒く変色した、腕だった。
「十五年、災いを食い止める間に、私の名は、飢えに侵された。このまま三日経てば、私も、群れの一部になる」
ヴェルディアが、息を呑んだ。
「だから、急いで来たのね」
「そうだ。三日後、国境の戦いの前に、私は、まだ、名前を持っているうちに、君に会いたかった」
ハルトは、少しだけ、笑った。
「兄は、ずっと言っていた。『リオが大きくなったら、会わせたい』と。……約束を、果たせてよかった」
俺は、言葉が出なかった。
会ったばかりの叔父だった。それでも、その腕の黒さが、俺の胸を締めつけた。
「ハルトさん」
「ハルトでいい」
「ハルト。……俺は、あなたを、救う」
「救えない可能性も、ある」
彼は、正直に言った。
「二つ目の橋は、自分の名が壊れる覚悟が、要る。私は、その覚悟をして来た」
「させない」
俺は、はっきり言った。
「あなたが壊れる前に、全員の名前を、返す。……そのために、俺は、橋になるんだ」
ハルトの目が、わずかに潤んだ。
「兄に、似ているな」
「え」
「頑固なところが」
ヴェルディアが、ふん、と鼻を鳴らした。
「血は争えないわね」
そして、彼女は、そっと、俺の肩に手を置いた。
「リオ。覚えておいて」
「何を」
「あなたは、一人で橋になるんじゃない。私も、橋の柱になるわ」
金の瞳が、静かに光っていた。
*
城へ戻る道の途中、俺は、母に会いに寄った。
母は、窓辺の寝台で、半身を起こしていた。
ハルトの名前を出すと、母は、小さく目を閉じた。
「……あの人の弟が、生きていたのね」
「母さん、父さんは」
「生きているわ」
母は、静かに言った。
「十五年前、あの人は、城に向かう前の夜、私にこう言ったの」
窓の外の、北の空を見つめて。
「『リオの名前を、必ず、取り戻す。だから、俺の名前が、消えても、探さないでくれ』って」
「探さない……?」
「でも、私は、探したかった。眠らされる前の夜まで、ずっと」
母の目から、涙が一筋、落ちた。
「リオ。お願いがあるの」
「うん」
「お父さんを、見つけたら、私の代わりに、言って」
母は、泣き笑いの顔で、言った。
「『ご飯よ』って」
胸が、きゅうっと痛んだ。
千年の母と息子の物語が、今、俺の家族の物語に、重なった。
「分かった。必ず、言う」
「ありがとう」
その夜、俺は、眠れなかった。
窓の外の、北の空。
黒い雲の下に、父が、まだ、立っているのかもしれない。
そして、俺の鑑定が、その名を、静かに読み取った。
【鑑定】
追記:「アルク」の名を持つ者は、三人
追記:一人は、リオ
追記:一人は、ハルト
追記:もう一人は、災いの最前線に、立っている




