第20話 「もう一人の器」の名簿は、白紙だった。そして俺の名前が、そこに書かれていた
王都の城門をくぐったのは、夜更けだった。
馬車の中で、父リヒトは、膝の上で何度も手を組み直していた。
「落ち着かないのね、あなた」
ヴェルディアが、固パンをかじりながら言った。
「十五年ぶりなんだ。エルナに、何て言えばいいか」
「『ただいま』でいいじゃない」
「……それが、一番難しい」
向かいの席で、ハルトが小さく笑った。
「兄さんは、昔から、肝心なところで言葉が出ない」
「うるさい」
兄弟の軽口に、少しだけ、胸が温かくなった。
けれど、膝の上で握った俺の拳は、冷たいままだった。
『王の器は、レオンだけではなかった』
ロデリクの言葉が、頭から離れなかった。
*
城の医務室で、ロデリクは寝台に横たわっていた。
顔色は悪いが、目は、はっきり開いている。隣には、レオンの身体を借りたカイが、心配そうに座っていた。
「……来たか」
「伯父さん、無理しないで」
「無理をしなければ、間に合わない」
ロデリクは、ゆっくり上体を起こした。
その視線が、扉の前に立つ男へ止まった。
「……リヒト」
「兄さん。……いや、義兄さん、か」
「生きていたのか」
ロデリクの声が、震えた。
「君が国境の外へ追放されたと聞いた時、私は、守れなかったと思っていた」
「守られたよ。あんたが、エルナを、リオを、守った」
リヒトは、深く頭を下げた。
「ありがとう。……遅くなった」
老人は、何も言えず、ただ、頷いた。
沈黙の後、ロデリクは、俺を見た。
「リオ。釈明をさせてほしい」
「聞くよ」
「第7話の井戸の底で、私は、嘘をついたわけではない。ただ、一つだけ、言えなかったことがある」
老人は、懐から、一冊の古い帳面を取り出した。
表紙は、黒く煤けている。
「王の器の名簿だ。ヴァンの血を引く者が、千年、順番に記されている」
開かれたページには、名前が並んでいた。
レオン・ヴァン。ガルド・ヴァン。無数の、古い名。
そして、最後の行だけが、空白だった。
「十五年前、この最後の行を、私は、白紙にした」
「白紙に?」
「王が、次の器の名を書き込む前に、インクを焼いた。誰の名も、書かれなかったことにした」
【鑑定】
名称:器の名簿
状態:最終行、白紙(改竄)
追記:白紙は、「まだ書かれていない」のではなく、「書かせなかった」跡
追記:紙の裏に、別の筆跡あり
「裏?」
俺は、そっと、ページをめくった。
薄い、透けるような筆跡が、そこにあった。
王の筆跡ではなかった。
【鑑定】
追記:書き込んだ者の真の名:エルナ・ヴァンデ
追記:書かれた名:リオ・ヴァンデ・アルク
息が、止まった。
「……母さんが、俺の名を」
「そうだ」
ロデリクは、静かに言った。
「エルナが、自分で、リオの名を、名簿に書いた」
「どうして」
「君の名を、器の名簿に載せておけば、王は、他の誰かを探さなくなる。君を、最後の器に、選ぶまで」
ヴェルディアが、鋭く言った。
「つまり、あなたの母親は、息子を、囮にしたの」
「違う」
リヒトが、低く言った。
「エルナは、囮にしたんじゃない。時間を、買ったんだ」
彼の目が、遠くを見た。
「王が、名簿の名を呼べるのは、一度きり。名簿に書かれた者が、本人の意志で、署名した時だけ。……あいつは、リオが、署名しないと、信じていた」
「信じて、くれていたのか」
胸の奥が、熱くなった。
三年間、ガレスたちは、俺を疑わなかった。疑う価値すら、感じなかった。
母は、会ったこともない息子を、十五年、信じて眠っていた。
「じゃあ、もう一人の器、というのは」
「名簿の中に、もう一人、署名済みの名があったんだ」
ロデリクの声が、低くなった。
「私が見落としていた。レオンの、すぐ上の行に」
彼は、震える指で、ページを指した。
俺は、目を凝らした。
【鑑定】
名称:署名済みの名
真の名:――(消された)
追記:署名は、十五年前の儀式の夜
追記:署名者は、「王を父と呼んだ者」
追記:この者は、まだ、生きている
「王を、父と」
ヴェルディアの顔が、凍りついた。
「……王に、子供がいたの?」
「千年、名を奪い続けた男に、子など、できないはずだ」
ロデリクが、首を振った。
「だが、器の名簿に、養子として名を書いた者が、一人だけいる」
その時、医務室の扉が、静かに開いた。
入ってきたのは、白衣の、小柄な女だった。
魔導院の、最後の書記官。ヴォルクの副官を名乗っていた女。
「……お久しぶりです、院長」
その女が、ゆっくりと、顔を上げた。
眼鏡の奥の目が、ぞくりとするほど、冷たかった。
「署名したのは、私です」
バルトが、剣に手をかけた。
「待て」
俺が、手を上げて制した。
目を凝らす。
【鑑定】
名称:魔導院書記官
真の名:セレステ・アルカディア
状態:王の養女(名簿に署名済み)
追記:第三の器。名の力は、「アルカディア」を、国名として保管する者
追記:ヴェルディアの「アルカディア」の貸与を、無効にできる
ヴェルディアの顔から、血の気が引いた。
「……私が、カイに貸した名前を」
「ええ」
女は、薄く笑った。
「国名としての『アルカディア』の管理者は、王の養子である、私。王が敗れた今、名の主は、私です」
彼女は、袖の中から、一枚の紙を取り出した。
「貸与は、無効です。……そして」
紙には、俺の名が、書かれていた。
「リオ・ヴァンデ・アルク。あなたの母が、器の名簿に書いた名前。本人の署名は、まだ、足りませんが」
「何を、する気だ」
「簡単なことです」
女は、にこりと笑った。
「カイに貸された『アルカディア』を取り戻し、竜の守りを、私が継ぐ。あなたは、署名するか、カイが消えるのを見るか」
医務室の空気が、凍りついた。
レオンの身体の中で、カイが、息を呑んだ。
「……リオ。僕のことは、いいから」
「よくない」
俺は、拳を握った。
名前を、返す戦いは、終わっていなかった。
名前を、奪う者は、まだ、生きていた。
「ヴェルディア」
「……何」
「読んで、疑って、それから信じる。……疑う番だ」
彼女の金の瞳が、かすかに揺れた。
それから、にやりと笑った。
「ええ。徹底的に、疑いましょう」
女の笑みが、少しだけ、揺らいだ。
窓の外で、夜が、ゆっくりと、白み始めていた。




