第15話 千年遅れの「はい、今行く」と、竜が背負った代償
「……アルク」
影の母が、俺の名を呼んだ。
「待って。どうして、ミレイユさんがリオの名前を」
ヴェルディアが牙を握って前に出る。影の母は、微笑んだまま動かない。
俺は目を凝らした。
【鑑定】
名称:魔王の核
真の名:ミレイユ・ヴァンデ
追記:千年前、孤児のガルドも食卓に迎えた。彼女が与えた姓が「ヴァンデ」
追記:「アルク」は橋。死者の呼びかけを、生者の声で届ける名
「橋……」
「そう。だから、あの人は、あなたを呼んだのね」
ヴェルディアが小さく言った。
影の母が、静かに頷く。
その瞬間、視界が白く弾けた。
*
千年前の、小さな家だった。
薄い粥をすする、栗色の髪の少年。その隣に、黒髪の少年がいる。
「カイ、ご飯よ」
湯気の向こうで、痩せた女が笑っている。
女は、咳き込んで膝をついた。床に落ちた木のスプーンが、乾いた音を立てた。
「母さん!」
少年は、泣きながら叫んだ。
「死なないで。僕が、助けるから」
その夜、彼は洞窟へ向かった。
眠る竜の名を、盗むために。
*
現実に戻ると、頬が濡れていた。
隣で、カイが俯いている。レオンの身体から離れた彼は、半透明だった。
「盗んだ力で、母さんを治した。母さんは、目を覚ますなり言ったんだ」
少年の声が掠れた。
「『盗んだ命で、生きたくない』って。でも、僕は、母さんを生かすために、もっと盗んだ。何人分も」
「……ミレイユさんは」
「最後まで、僕の名前を呼び続けた。やめなさいって。ご飯よ、帰っておいでって。毎日」
カイは、顔を覆った。
「僕は、返事をしなかった。返事をしたら、やめなきゃいけなかったから」
ヴェルディアが、静かに言った。
「それで、母親の名前を、核にしたのね。呼び声を、手放せなくて」
「うん」
彼女は牙を下ろした。
「……責めないわ。今は、聞くだけ」
*
影の母が、カイを見下ろした。
『カイ。聞こえる?』
「聞こえない」
少年は、首を振った。
「母さんの声は、ずっと、鎧の向こうだった」
【鑑定】
追記:呼びかけは、千年、途切れていない。応える声がなく、完了していない
追記:応えれば、核は役目を終える。同時に、カイを繋ぐ名もなくなる
「応えたら、カイが消える」
「うん。わかってた。だから、返事を、できなかった」
俺は、核を見つめた。
「橋になる。俺が、あの人の声を、届ける」
「リオ」
ヴェルディアが、鋭く言った。
「橋になっている間、あなたの名は、開きっぱなしになるのよ」
「ああ。だから、頼みがある」
俺は、彼女を見た。
「俺の名前を、呼び続けてくれ。先に信頼で呼ばれた名は、縛れない」
「……何時間でも?」
「できるだけ」
「千年待ったのよ。数時間くらい、軽いわ」
彼女の両手が、俺の背に触れた。
「リオ。リオ。……リオ」
背中が、温かかった。
*
ガレスが人波を押し留め、ミラが結界を張った。バルトが兵を外側に並べ、セレスティアが空に光の円を描く。
「借りが三年分あるのよ。踏み倒させないわ」
セレスティアが、そっぽを向いて言った。
影の母の指が、俺の胸に触れた。
喉が、勝手に開いた。
「カイ」
俺のものではない、優しい声が、流れ出た。
「カイ。ご飯よ」
千年、途切れなかった呼びかけ。
少年の肩が、震えた。
「……母さん」
涙が、ぽろぽろ落ちる。
「ごめん。盗んで、ごめんなさい」
『いいのよ。返すと決めたなら』
「ちゃんと、返す。……だから、もう一度、呼んで」
『カイ、ご飯よ』
少年は、涙を拭って、顔を上げた。
「……はい、お母さん。今、行く」
核が、光になった。
あたたかい光は、俺の身体を通って、空へ昇っていった。
亀裂が、閉じていく。
残っていた影が、一斉に、金色の粒になって降った。
「……魔王は、消えたわ」
セレスティアが、杖を下ろして座り込んだ。
「俺の魔王討伐は、結局、一度も戦わずに終わったな」
ガレスが空を見上げて呟き、バルトが吹き出した。
広場に、安堵の笑いが広がった。
*
ただ、カイの輪郭だけが、薄れていく。
「カイ」
「いいんだ」
少年は、穏やかに笑っていた。
「千年、長かった。返事ができた。それで、十分だよ」
「十分じゃない」
声がした。
ヴェルディアが、牙を地面に突き立てて、カイの前に立っていた。
「ひとつ、聞くわ。あなた、私の名前を、千年、借りていたのよね」
「……うん」
「なら、利子を取り立てる」
彼女は、自分の胸に手を当てた。
「ヴェルディア・ノクス・アルカディア。第三の名『アルカディア』を、あなたに、貸す。一生、返さなくていい。その代わり」
「……代わり?」
「千年分、働きなさい。名前を返す仕事を、リオと一緒に」
【鑑定】
名称:ヴェルディア・ノクス・アルカディア
状態:「アルカディア」を、カイへ貸与(無期限・双方から解約可能)
追記:竜は、国の守りの力を、手放した
「待て。それは、国の守りの名だぞ」
「ええ。だから、国が千年守られていた力も、なくなるわ」
ヴェルディアは、肩をすくめた。
「でも、彼を消すより、ましでしょう。私が決めたの」
カイの輪郭が、濃くなった。
「……どうして」
「固パンを、半分こにした仲でしょう? まだ、してないけど。これからするの」
少年は、顔をくしゃくしゃにして泣いた。
その横で、レオンが、そっと進み出た。
「僕の身体も、分ける」
「レオン」
ロデリクが、息子の肩を掴んだ。
「僕が、決めたんだ。十五年、寝てただけだから。話し相手が、欲しかったし」
【鑑定】
名称:レオン・ヴァン
状態:身体の共有に同意。偽りなし。いつでも、双方から解約可能
俺は、頷いた。
「……読んだ。偽りは、ない」
*
夕方。広場の隅で、俺は、母の寝台の横に座っていた。
ミラの治癒で、母は、半身を起こせるまでに戻っている。
「大きくなったのね、リオ」
「さっきも、言ってたよ」
「何度でも、言いたいの」
母が笑った時、足元の石畳が、ぐらりと揺れた。
ヴェルディアが、牙を握って立ち上がる。
「……来たわ」
王都の鐘が、一斉に鳴った。低く、割れた音だった。
「国の守りが、切れたの。千年、この国は、災いを知らなかった」
窓の外。北の山脈の向こうから、黒い雲が立ち上っている。
ただの雲ではなかった。雲の下を、何かが、ゆっくり、歩いている。
【鑑定】
名称:千年の遅れた災い
真の名:――
状態:王国の守りが消えた瞬間から、国境を越えて進軍中
追記:到達まで、三日
ヴェルディアが、にやりと笑った。
「ちょうどいいじゃない。新しい仕事よ、鑑定士」
「就職先が、また勝手に決まったな」
「慣れなさい」
彼女は、俺の手を取った。
冷たくて、小さな手だった。けれど、そこだけ、息ができた。
次の戦いが、始まろうとしていた。




