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第14話 魔王の心臓は、千年前に「ご飯よ」と呼んだ、母の声だった

空の亀裂が、ゆっくりと広がっていく。



黒い裂け目の奥から、囁きが降ってきた。怒鳴り声ではない。何万もの小さな声が、重なり合っている。



『……呼んで』



『わたしの名前を』



『だれか、呼んで』



広場の民衆が、耳を押さえて出口へ殺到した。



「魔王だ! 逃げろ!」



「押すな! 子供と年寄りが先だ!」



ガレスが、人波の前に両腕を広げて立った。



「次は魔王討伐だと、あれだけ息巻いてたのにな。……俺は、逃げ道の整理か」



苦笑いの背中は、肩書きの重さが消えて、少し軽かった。



   *



「リオ。読める?」



ヴェルディアが、牙を構えたまま空を睨んだ。



俺は亀裂に目を凝らした。もう、解除率も防護残量も浮かばない。名前は全部、俺の中に戻っている。



【鑑定】

名称:魔王

真の名:――(無数)

状態:返されなかった名の溜まり。約三万

追記:怒りではなく、渇き。呼ばれることを求めている

追記:斬れば、名は砕けて失われる



「斬れない。返すしかない」



「三万も?」



「三万だ」



ヴェルディアは目を丸くして、ふんと笑った。



「あなた、ろくでもない仕事を引き当てたわね」



「就職先が、勝手に決まったんだ」



後ろで、セレスティアが吹き出した。



   *



影の塊から、細い手がひとつ、降りてきた。



民衆の頭上をかすめるだけで、誰にも触れない。ただ、探している。



俺は、その手をそっと握った。冷たくて、小さかった。



【鑑定】

名称:名の欠片

真の名:マーサ・リーベル

状態:六十七年前、飢饉の冬に、名を収穫された。九歳

追記:最後に、妹の名を呼んでいた



「マーサ・リーベル。……妹さんを、探しているのか」



「あの」



人波の端で、杖をついた老婆が足を止めていた。



「リーベルは、私の姓です。姉は、九つで、いなくなって」



老婆の唇が、震えた。



「姉さんの名前は、マーサ。……マーサ姉さん」



影の手が、ふわりと光った。



小さな女の子の形が、一瞬だけ浮かんで、笑った。



『……ほら、やっぱり、生きてた』



光が、空へほどけていった。



老婆は、その場に座り込んで、声をあげて泣いた。



広場が、静まり返った。



逃げようとしていた人々の足が、止まった。



   *



そこからは、長い作業になった。



影の声を聞き分けて囁く者がいた。壇の残骸の上で立ち上がった、カイだった。



「聞き分けられるのは、僕だけだ。千年、聞いていたから」



ガレスが、険しい顔で睨んだ。



「償いのつもりか」



「違う。償いにはならない。でも、名前を間違えて呼ぶのは、もっと、ひどい」



少年の声は、掠れていた。



俺は、カイを読んだ。



【鑑定】

名称:カイ・ヴァンデ

状態:偽りなし

追記:許されることを、求めていない



「許さない。それは、俺が決めることじゃなく、奪われた人たちが決める」



「うん」



「だから、呼ぶ作業だけ、一緒にやる。それでいいか」



「……十分だよ」



カイは、少しだけ、泣きそうに笑った。



名前が、囁かれる。俺が読み、確かめる。そして、広場の誰かが、呼ぶ。



「ヨハン・ブレンナー! 鍛冶屋の次男坊だ!」



バルトが叫び、



「ティナ・ロウ。十二歳」



セレスティアが、杖の先で、空に名前を描く。炎ではなく、光の文字だった。



「ハンス・クルツ。羊飼い」



ミラが、祈るように呼んだ。



民衆が、一人、また一人と加わった。



「うちの曾祖父だ」「私の叔母さんだわ」



千年分の名前が、返っていく。空は、金色の粒で満ちていった。



ヴェルディアは牙を置いて、俺の隣に座った。



「手伝うことは、ないの?」



「そこにいてくれ。君がいると、読み間違えない」



「……そう。なら、いるわ」



耳が、また赤かった。



   *



亀裂は、半分ほどに縮んでいた。



その時、カイが、ぴたりと動きを止めた。



「……一つだけ、返せない声がある」



顔が、真っ青だった。



「最初から、わかってた。いちばん奥に、ずっと、いる」



亀裂の奥から、大きな影が、ゆっくりと降りてきた。



他の影と違った。濃くて、あたたかい色をしている。



女性の形をしていた。粗末なエプロンをつけた、痩せた背中。



その手に、木のスプーンを握っていた。



『……カイ』



どこかで聞いた声だった。



『カイ、ご飯よ』



第13話で、少年の記憶から零れた、あの声だった。



【鑑定】

名称:魔王の核

真の名:ミレイユ・ヴァンデ

状態:千年前に死んだ、カイの母の名

追記:王は、母の名を核にして、自分の存在を繋いでいる

追記:核を解けば、魔王は消える。同時に、カイを世界に繋ぎ止めるものも、消える



喉が、からからに乾いた。



「……カイ」



「うん」



少年は、笑っていた。



「千年、手放せなかったんだ。これだけは、返せなかった。返したら、僕が、いなくなるから」



「器から抜けたら、君は」



「消える。レオンの身体に居ても、母さんの名がなければ、長くは」



カイは、母の影を、静かに見上げた。



「だから、リオ。頼みがある」



「言うな」



「僕ごと、解いて」



ヴェルディアが、立ち上がった。



「だめよ」



「でも」



「だめだって、言ってるでしょう。千年かけて、ようやく、名前を呼ばれたのに」



彼女の声が、震えていた。



「消えるために、呼ばれたんじゃないわ」



俺は、母の影の前に立った。



読めば、核は解ける。魔王は消える。三万の名も、全部、帰る。



そして、カイは、いなくなる。



「読んで、疑って、それから信じる」



俺は、小さく呟いた。



「疑うよ。消える以外の道が、本当に、ないのか」



その時、ヴェルディアの胸が、ほのかに光った。



千年前、騎士が遺した誓いの欠片。第12話で、彼女の中に溶けた光だ。



光は、母の影へ向かって、細い糸のように伸びた。



【鑑定】

追記:誓い「いつか、必ず、名を呼ぶ」

追記:呼ばれるべきは、まだ、一人

追記:その名は、カイでも、ミレイユでもない



影の母が、ゆっくりと、こちらを向いた。



その目は、カイを見ていなかった。



まっすぐ、俺を、見ていた。



『……やっと、会えた』



母の影が、微笑んだ。



『アルク。私の、最後の子』


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