第13話 渡すな、と母は言った。だから俺は、名前を「返し」に行った
東の空が、薄い金色に染まり始めていた。
日の出まで、あと二十分もない。
「最後の一文字を、渡してくれるね。リオ」
壇の残骸の上で、少年が微笑んでいる。
「千年探した欠片だ。君が盾を下ろした瞬間、僕のものになる」
【鑑定】
名称:リオ
真の名:████アル█
状態:解除率32%/防護残量68%
追記:王の名の後半「ヴァンデ」は、ヴァンの血に封じられている
追記:盾「リオ」は、その蓋
蓋が外れれば、名は王へ流れる。
母は、それを止めようとしたのだ。
「母さん」
腕の中で、母が、かすかに唇を動かした。
「……渡しては、だめ」
「分かってる。でも、このままじゃ、母さんが」
「違うの」
母は、俺の袖を弱い力で掴んだ。
「渡すんじゃない。返すのよ」
「返す?」
「奪われた名は、返してあげなさい。あの子の意志で、受け取らせるの」
母の目が、少しだけ笑った。
「それが、鑑定士の仕事でしょう」
その背で、ミラが歯を食いしばった。
「……日の出まで、持たせます。でも、それが限界です」
額から汗が落ちる。聖女の光が、母の胸で細く震えていた。
*
壇の上で、少年の身体が、ぐらりと揺れた。
「……ぐ」
右手が、勝手に自分の胸を押さえている。
「黙れ。まだ、出てくるな」
少年の口から、別の声が漏れた。
『……リオ』
「レオン!」
『聞こえてる。ずっと、聞いてた』
少年の瞳の奥で、栗色の光が、一瞬だけ瞬いた。
『王が君を縛ろうとすると、僕の歌が、一瞬だけ邪魔になる。三節目は知らないけど、一節目なら歌える』
「歌えば、君は」
『消えないよ。だって』
広場の端の鐘楼から、鐘が鳴った。
ロデリクの、老いた、けれど、澄んだ声だった。
「レオン。レオン・ヴァン。私の息子」
十五年ぶりに、父が、息子の名を呼んでいた。
『……父さん』
「ああ」
『ごめん。ずっと、寝てた』
「謝るな。帰っておいで」
少年の口から、細い旋律が流れ出した。
ヴァンの子守唄、一節目。
俺の喉も、勝手に同じ旋律を紡いでいた。
二つの声が、朝焼けの広場で重なった。
「やめろ」
影が、ぐにゃりと歪む。
「うるさい。うるさい、うるさい!」
少年の背後で、ガレスが叫んだ。
「リオ! 前を見ろ!」
民衆の中から、声が上がる。
「リオ!」
「リオ、頑張れ!」
第8話の夜と同じだった。呼ぶ声が、盾を厚くしていく。
解除率20%/防護残量80%
*
少年の力が、ほんの少し、緩んだ。
その隙に、俺は、ヴェルディアの手の牙を見た。
聖剣エクスルーナ。第1話から、ずっと勇者の手にあった剣。
「ヴェルディア。牙を、貸してくれ」
「何をするの」
「王の名の前半を、読む」
彼女は、一瞬だけ迷って、牙を俺の掌に置いた。
「必ず、返してね」
「約束する」
俺は、目を閉じた。
怒りは、もう、ほとんど薄れていた。
あるのは、千年、名前を呼ばれなかった子供のことを、知りたいという願いだけだった。
黒い染みの奥で、光の文字が、静かに浮かぶ。
「……カイ」
少年が、息を呑んだ。
「カイ。それが、あなたの名前の前半だ」
「やめろ」
声が、震えていた。
「思い出させるな。その名前を呼んでくれた人は、もう、いないんだ」
「母さんが、そう呼んでいたんだろう」
「…………」
影の中で、小さな子供の気配が、揺れた。
『カイ、ご飯よ』
誰かの優しい声が、少年の記憶から零れた。
王の影が、わずかに、薄れた。
*
「君の名前は、カイ・ヴァンデ。後半は、俺が持っている」
少年の顔が、歪んだ。
「そうだ。だから、君を、奪う。盾を下ろした瞬間に、君の名前ごと」
「その通りだ」
俺は、頷いた。
「盾を下ろせば、俺は丸裸になる。君が先に呼べば、俺は縛られる」
「なら、どうして」
「先に、呼んでもらうからだ」
俺は、振り返った。
ヴェルディアが、牙を受け取りながら、目を丸くした。
「……私?」
【鑑定】
追記:先に信頼で呼ばれた名は、後から命令では縛れない
追記:最後の一文字は、一番信じた者が、先に呼ぶこと
母の言葉と、ガレスの言葉と、民衆の声が、一本に繋がった。
名前をちゃんと呼ばれたことがある者は、強い。
「俺の最後の一文字が何か、まだ分からない。でも、君なら、呼べる気がする」
ヴェルディアの顔が、みるみる赤くなった。
「な、何を言って」
「頼む」
「……失敗したら、あなたは、王に縛られるのよ」
「ああ」
「私が、間違えたら」
「君は、間違えない」
彼女は、唇を噛んだ。
それから、牙を腰に差し、俺の前に立った。
金の瞳が、まっすぐ、俺を見ている。
「……分かったわ」
*
俺は、自分の胸に手を当てた。
「盾を、下ろす」
【鑑定】
名称:リオ
状態:解除率100%/防護残量0%
数字が、一気に反転した。
母の声が、遠くで聞こえた。
盾が、消える。
「今だ!」
少年が、叫んだ。
「ヴァンデ・アルク! 来い!」
影が、津波のように俺へ押し寄せる。
「先に、呼ぶわ」
ヴェルディアが、俺の頬に、両手を添えた。
冷たくて、小さな手だった。
「リオ。千年待った私に、名前を返してくれた人」
金の瞳が、潤んでいた。
「あなたの名前は、アルク。ヴァンデの血が渡す、橋の名前よ」
その言葉と同時に、胸の奥の最後の染みが、ほどけた。
【鑑定】
名称:リオ
真の名:ヴァンデ・アルク
追記:アルクは、古い言葉で「橋」。奪われた名を、持ち主へ渡すための名
追記:先に呼ばれた名は、後から命令では縛れない
影が、俺の身体に触れた。
そして、弾かれた。
「……なぜ」
少年が、後ずさった。
「僕の声が、効かない」
俺は、ゆっくり、立ち上がった。
「君は、奪う側だったから、返してもらう側を知らなかった」
俺は、右手を差し出した。
「カイ・ヴァンデ。これは、君の名前だ。返す」
「いらない。そんなもの」
「受け取るかどうかは、君が決めていい」
少年の目が、揺れた。
千年、他人の名前ばかり集めて、一度も、自分の名前を持てなかった子供の目だった。
「……ほんとうに、返してくれるのか」
「ああ」
「僕を、また、縛るんじゃないのか」
「縛らない。読んで、疑って、それから、信じてほしい」
少年は、震える手を伸ばした。
指先が、俺の掌に、触れた。
*
光が、広場を満たした。
「ヴァンデ」の名が、橋を渡るように、俺から、少年へ流れていった。
少年の足元の影が、ほどけた。
「……カイ」
少年は、自分の名前を、小さく、口にした。
「僕は、カイ・ヴァンデ」
涙が、頬を伝った。
「ガルド。やっと、呼べた」
その瞬間、少年の瞳に、栗色の光が戻った。
レオンの身体が、がくりと崩れる。
「レオン!」
鐘楼から駆け下りたロデリクが、倒れ込む息子を、両腕で受け止めた。
「……父さん」
「ああ。ここにいる」
老人の肩が、大きく震えた。
十五年分の涙が、石畳に落ちた。
*
日が、昇った。
その光が、母の頬を、照らした。
「ミラ!」
「……あ、足りません。もう、光が」
ミラの手が、震えていた。
「大丈夫」
母が、俺の頬に触れた。
「三節目を、歌いましょう。一緒に」
俺は、頷いた。
低く、ゆっくりした、波のような旋律。
母の声と、俺の声が、重なった。
二節で止まっていた子守唄が、初めて、最後まで流れた。
その歌は、名前を「返す」ための歌だった。
歌い終わった時、母の胸の光が、すっと、強くなった。
呼吸が、深くなった。
「……脈が、戻りました」
ミラが、泣きながら笑った。
「持ちこたえました。もう、大丈夫です」
ヴェルディアが、俺の背中に、そっと額を寄せた。
「……ばか。心臓が止まるかと思ったわ」
「竜の心臓だろ」
「うるさい鑑定士」
耳が、真っ赤だった。
*
広場に、静けさが戻りかけていた。
ガレスが、セレスティアの肩を借りて立ち上がり、ミラが母の脈を取り、バルトが地下から這い上がってきた。
カイは、壇の残骸に座り込んで、自分の掌を見つめていた。
「……軽い」
小さな声だった。
「名前があるって、こんなに、軽いんだね」
「それが、普通だ」
「そう。……ありがとう、リオ」
少年は、少しだけ、笑った。
その時だった。
彼の顔から、笑みが消えた。
「……まずい」
「どうした」
「僕が千年奪った名前は、全部、この国に溜めたはずなんだ。でも、一部は、返せなかった」
少年の視線が、空へ向いた。
「返せなかった名前は、行き場を失って、国の外へ溢れていた。千年分、ずっと」
俺の背筋が、冷えた。
「……外へ」
「ああ。人々が『魔王』と呼んでいるものの、正体だ」
空が、割れた。
王都の北の空に、細い黒い亀裂が走っている。
ヴェルディアが、息を呑んだ。
「……ガレスたちが、討伐に向かうはずだった、魔王」
「そう」
カイは、震える声で言った。
「あれは、王国が千年かけて作った。奪われた名前たちの、怒りだ」
亀裂の奥から、無数の声が、聞こえてきた。
俺には、読めてしまった。
それは、名前を呼ばれることを待ち続けた、何万もの、人の声だった。




