第12話 竜の牙は、俺の喉元で止まった。「一番信じた人」が、その名を呼んだから
白銀の牙が、俺の喉元で止まった。
切っ先が、小さく震えている。
「……斬りなさい、アルカディア」
少年の声が、命じる。
ヴェルディアの腕が、ぎしりと軋んだ。額に汗が浮き、唇が噛み切られて血が滲んでいる。
「やだ……」
掠れた声だった。
「やだって、言ってるでしょう……」
「無駄だよ。国が千年呼び続けた名だ。君の意志より、民の声のほうが重い」
少年が、愉しげに笑う。
俺は、動かなかった。
動けば、彼女が俺を斬る。動かなくても、時間の問題だった。
「リオ……逃げて……」
「逃げない」
「お願い、逃げて」
「君が言ったんだぞ」
俺は、牙の切っ先を見つめたまま言った。
「読んで、疑って、それから信じなさい、と」
金の瞳が、揺れた。
「俺は、君を読んだ。君の契約を。千年の孤独を。固パンで泣く、情けない竜の顔を」
「情けないは余計よ……」
「そして、信じてる」
牙が、わずかに、下がった。
少年の笑みが、止まった。
*
胸に、母の言葉が蘇った。
『名前の最後の一文字は、あなたを一番信じた人が、呼ぶの』
あれは、俺の名前の話だと思っていた。
けれど、違うのかもしれない。
母は、あの時、ヴェルディアの横顔を見ていた。
「ヴェルディア」
「……っ」
「君の名前は、半分しか戻っていない。国名として奪われたのは、アルカディアの部分だ」
俺は、彼女の目を見た。
「なら、残り半分は、誰が持ってる」
「……え」
「ヴェルディア・ノクス・アルカディア。第一の名、第二の名、第三の名。千年前、君を呼んでいたのは、誰だ」
彼女の瞳が、大きく開いた。
思い出している。
千年前、初代王に縛られる前。まだ、自由だった頃。
名を呼んでくれた、誰かのことを。
「……ガルド」
唇が、震えた。
「ガルド・ヴァンは、私を、『ノクス』と呼んでいた。夜の、友だと」
「ああ」
「斬れなかったの。あの人は、私を、斬れなかった」
涙が、溢れた。
「ずっと、私が、あの人を番犬に——」
「違う」
俺は、はっきり言った。
「ガルドは、君を守って、名を奪われた。君が、悪かったんじゃない」
ヴェルディアの手が、ぷるぷると震えた。
牙が、ゆっくりと、俺の喉元から離れた。
少年の顔から、笑みが消えた。
「……何をした」
「読んだだけだ」
俺は、背負い袋から、錆びた兜を取り出した。
千年、竜の傍らに眠っていた、騎士の遺物。
兜は、俺の手の中で、かたりと鳴った。
【鑑定】
名称:ガルドの兜
真の名:ヴェルディアの第二の名「ノクス」の守り手
状態:名の欠片を封じている
追記:「アルカディア」に上書きされた名を、取り戻す鍵
「ヴェルディア。これを、持っていて」
彼女は、震える手で、兜を抱きしめた。
その瞬間、兜が淡く光り、錆がぱらぱらと剥がれ落ちた。
兜の内側から、小さな銀の文字が、浮かび上がる。
『ノクス。夜の友へ。いつか、必ず、名を呼ぶ』
千年前の、騎士の、誓いだった。
「……ガルド」
彼女は、兜に頬を寄せた。
「約束、守ってくれたのね。千年も」
兜が、ふっと、光の粒になった。
粒は、ヴェルディアの胸に吸い込まれていった。
【鑑定】
名称:ヴェルディア・ノクス・アルカディア
状態:名縛り(部分)→ 解除
追記:「ノクス」の名が、「アルカディア」の上書きを押し返した。第二の名の守り手の誓いによる
彼女の金の瞳に、光が戻った。
牙を、ぎゅっと握りしめる。
「……おまたせ、リオ」
「遅いぞ」
「千年待たせたんだから、数秒ぐらい、許しなさい」
彼女は、ぐいと涙を拭って、にやりと笑った。
*
「馬鹿な」
少年の声が、裏返った。
「国の名は、千年、僕のものだったはずだ」
「あなたのものじゃないわ」
ヴェルディアが、一歩、前に出た。
「ヴェルディア・ノクス・アルカディア。夜の友が、私に残してくれた名前。国の名は、あなたに貸していただけよ」
牙が、朝日を受けて、白く光った。
「利子は、ここで取り立てるわ」
少年が、慌てて手を上げた。
「全員、動くな! 動くな!」
広場の人間が、再び、ぴたりと止まった。
ただ、一人、また一人と、止まったまま、首が動く者がいた。
「……な」
「聞こえてる」
ミラだった。
「聞こえてます。でも、私たちの名前は、保管庫にあるだけです。私の本当の名前を呼んでくれる人が、私を縛るなんて、できません」
「そうだ」
ガレスが、にやりと笑った。
「名前を、ちゃんと呼ばれたことがあるやつは、強いんだ」
彼の首が、ぎしぎしと、動いた。
「俺は、ついさっき、本当の名前を、名乗ったばかりだからな」
広場の空気が、変わった。
民衆の中から、囁きが漏れる。
「……ルカ君の兄さん」「村のパン屋の、トーマだ」「娘の名前は、アンナ」
誰かが、誰かの名前を、呼んだ。
隣の人が、その名前を、呼び返した。
呼ぶ声が、波のように広がっていく。
「ケイン兵長!」
「ミルトン町の、ドーラさん!」
「うちの子の名前は、ミナだよ!」
一つ一つの声が、少年の命令を、押し返していった。
少年の顔が、青ざめた。
「やめろ。やめろ、僕の国で、勝手に……」
*
その時、広場の石畳が、ずん、と鳴った。
地下から、爆音が響いた。
石畳が割れ、割れ目から、無数の壺が、浮かび上がった。
壺の一つ一つが、砕け、光の粒になって、空に舞い上がる。
「バルト!」
割れ目の底で、銀の鍵を掲げた兵長が、叫んでいた。
「保管庫の壺は、全部、割った! 娘の分も、お前らの分も、全部だ!」
少年が、悲鳴を上げた。
「やめろ、それは、僕の、千年の——」
光の粒が、降る。
民衆の一人ひとりに、自分の洗礼名が、戻っていく。
母の腕の中の俺は、泣いていた。
母が、微笑んで、囁いた。
「あなたの、名前の、最後の一文字」
「え?」
「あの子が、持っているわ。竜の、あの子が」
俺は、顔を上げた。
ヴェルディアが、牙を構えたまま、少年を見据えている。
その背中が、千年の孤独より、ずっと、大きく見えた。
少年の足元の影が、ぐにゃりと歪んだ。
影の中から、別の声が、響いた。
『……もう、いい』
低く、重く、どこか、懐かしい声。
少年の口が、動いていないのに、声だけが、広場に満ちる。
『名なしの王の座も、飽きた。ならば、本当の名を、取り戻しに来た者たちへ、最後の宿題を出そう』
少年の瞳から、レオンの色が、消えた。
代わりに、金色の、竜と同じ色が、浮かび上がる。
『リオ。ヴェルディア。……お前たちに、聞こう』
影が、広場全体を呑み込んだ。
『千年前、あの竜の名を、最初に奪ったのは、誰だと思う?』
ヴェルディアの顔が、強張った。
「……あなた、まさか」
影の中で、少年の姿が、別の誰かに、変わっていく。
銀色の髪。金色の瞳。
ヴェルディアと同じ、竜の姿をした、青年に。
『私の名は、まだ、思い出さなくていい』
青年は、微笑んだ。
『妹よ。やっと、会えたな』




