第11話 目覚めた母に、王は初めて怒った。そして竜は、牙を俺に向けた
壇上の少年が、指を持ち上げたまま微笑んでいる。
東の空の縁が、ゆっくり白んでいく。朝日が昇りきるまでに、母の延命術を切る。そう言われている。
「待て。先に、俺に言わせろ」
ガレスが、俺の前に出た。
「階段の下で言うって、約束しただろう」
彼は、腰の鉄剣を鞘ごと外し、石畳に置いた。それから一人で、民衆の真ん前へ歩いていった。
*
「聞いてくれ。勇者ガレスだ」
歓声が上がる。ガレスは、静かに首を振った。
「違う。俺は、三年間、仲間の力を盗んで勇者を名乗っていた。聖剣は、竜から奪った牙だった。功績は、全部、一人の鑑定士のものだった」
どよめきが、広場を揺らした。
「その鑑定士の名は、リオ。俺が、ダンジョンの底に捨てた男だ」
彼は、石畳に額をつけた。
「王から授かった称号は、ここに返上する。そして、リオに詫びる」
右手の甲の紋様が、ぱきんと割れた。
「俺は、ルカの兄、ガレス・ブレイズだ。それだけでいい」
民衆の中から、囁きが漏れた。
「干ばつの村の子だ」「あの、ルカ君の……」
やがてそれは、まばらな拍手になった。
壇上の少年は、退屈そうに指を揺らした。
「余興は、終わったかい」
*
そこへ、セレスティアが巻物を掲げた。
「魔導士セレスティア。功績削除の命令書を、公開します。承認印は、魔導院第三書記官ヴォルク」
声は震えていたが、一語も噛まなかった。
「兵士のご家族の薬代を横領していた男です! 帳簿は、ここに!」
ミラが続けて叫ぶ。
兵の何人かが、槍を下ろした。
その時、広場の端の鐘楼から、鐘が鳴った。
ロデリクの、老いて、澄んだ声が、鐘に乗って広場を満たした。
「エルナ。眠り名を、呼ぶ。——ステラ」
壇上の寝台で、母の指が、ぴくりと動いた。
「……な」
少年の笑みが、初めて、崩れた。
「やめろ。まだ、早い。リオが壇に上がるまで、眠らせておく手筈だった」
母の瞼が、ゆっくりと開いた。
焦点の合わない目が、壇の上の少年を捉える。
「……レオン?」
「違う」
母の声は、掠れていたが、はっきりしていた。
「その子は、レオンじゃない。出ていきなさい」
少年の顔が、歪んだ。
「うるさい」
指が、振り下ろされた。
*
母の身体から、ふっと力が抜けた。
延命術が、切れた。
「母さん!」
俺は、階段へ走った。一段、二段、三段目で、足が止まる。
壇に上がれば、名の収穫に同意したことになる。
「リオ、行っちゃだめ!」
隣に、ヴェルディアが並んでいた。
「私が、道を作るわ。名前を呼んで」
「ヴェルディア」
銀の髪が逆巻き、金の瞳が縦に裂けた。背に、薄く、光の翼が広がる。
「少し、壇が傾くわよ」
牙の一閃が、壇の支柱を断ち切った。
壇が、ぐらりと傾いた。
母の寝台が、階段の下へ、滑り落ちてくる。
「母さん!」
俺は、両腕で受け止めた。石畳に膝をつく。壇には、一歩も乗っていない。
軽かった。十五年分、痩せた身体だった。
「……リオ」
母の指が、頬に触れた。冷たいのに、あの夜の手の温度だった。
「大きく、なったのね」
「母さん、喋らないで。ミラが」
「聞いて」
母は、俺の袖を、弱い力で掴んだ。
「名前の、最後の一文字は。あなたを、一番信じた人が、呼ぶの。読むのではなく、呼んでもらうのよ」
「一番、信じた人……」
その言葉と一緒に、ヴェルディアの横顔が、頭をよぎった。
*
同じ頃、王城の地下。
バルトは、銀の鍵で、保管庫の扉を開けた。
空の寝台が、一つ。母は、いない。
その奥で、彼は、足を止めた。
壁一面に、小さな壺が並んでいた。何千、何万と。
一つ一つに、名札が貼られている。
『ミルトン町 鍛冶屋 トーマ』
『王都 第三区 パン屋の娘 アンナ』
バルトは、自分の名札を見つけた。
『バルト・ケイン』
隣には、娘の名もあった。
「……全員の洗礼名の、写しか」
壺は、どれも、淡く脈打っていた。
その脈が、一斉に、速くなった。
*
広場の空気が、ぴしりと凍った。
壇の残骸の上で、少年が、立ち上がった。
「……いいだろう。そこまで来たなら、見せてあげる」
少年は、両手を広げた。
「全員、動くな」
広場の人間が、一人残らず、ぴたりと止まった。
ガレスも。ミラも。セレスティアも。兵も。民衆も。
その声が、俺の頭の奥へも、叩きつけられた。
【鑑定】
名称:リオ
状態:名縛り(解除率20%→32%)
追記:防護残量 68%
追記:広場の全員の名を、同時に呼んだ余波。盾が、受け止めた
「……母さん。聞こえてる」
「ええ」
母は、声を出せない。唇が震えるだけだった。
「国民全員の洗礼名は、王の手元の壺に写してある。千年分」
少年が、くすくすと笑った。
「僕に、名前はない。だから、皆の名前を、少しずつ借りているんだよ」
ヴェルディアだけが、まだ立っていた。
金の瞳で、少年を睨みつけている。
「……私には、効かないわ」
「そうだね。君の名は、取り戻された」
少年は、首を傾げた。
「ただし、半分だけ」
彼女の顔から、血の気が引いた。
「アルカディア」
少年が、その名を、呼んだ。
「膝を、つきなさい」
「やめ——」
彼女の膝が、がくりと折れた。
【鑑定】
名称:ヴェルディア・ノクス・アルカディア
状態:名縛り(部分)
追記:「アルカディア」は、千年、国名として民に呼ばれ続けた。その名は、王国の主に属している
「……そうか。国の名前は、君の名前。第2話でそう言ったのに」
俺は、自分の言葉に、歯噛みした。
名前を返したのは、半分だけだったのだ。
少年は、ゆっくり、歩いてきた。
「アルカディア。牙を拾いなさい」
ヴェルディアの手が、石畳の牙へ伸びる。
「やだ……」
掠れた声だった。
「リオ、見ないで……」
牙が、彼女の手に収まる。
「その男を、斬りなさい。契約者を」
金色の瞳から、涙が一筋、こぼれた。
白銀の牙が、俺の目の前で、ゆっくりと、持ち上がった。




