第10話 夜明け前、勇者は「称号」だけを返しに行った
夜明けまで、あと十時間あまり。
宿の食堂の卓に、ロデリクが羊皮紙を広げた。
「叙勲式の場所は、王城前の大広場。広場の石畳の真下が、王城地下の保管庫の天井にあたる」
「エルナさんは、その下に」
ミラが、小さく息を呑んだ。
「そうだ。鐘の声は石を震わせる。広場の真ん中で鳴らせば、地下まで届く」
「母さんを起こす『眠り名』を、鐘で響かせるんだな」
「ああ。私が名を呼ぶ。ただし」
ロデリクは、自分の胸を指した。
「私は、壇には近づけない。名を封じた身で壇の近くに立てば、王に居場所を悟られる。鐘は、広場の端の鐘楼から鳴らす」
「じゃあ、保管庫の扉は」
「俺だ」
バルトが、銀の鍵を握りしめた。
「兵の装束なら、地下の通路を歩ける。ヴォルクが逃げて、兵の配置は乱れてる」
「失敗したら?」
「その時は、各自で動く。何があっても、リオは、壇に立つな」
ヴェルディアが、固パンを片手に身を乗り出した。
「作戦は、完璧に聞こえるわね」
「完璧な作戦ほど、危ないんだ」
俺が言うと、彼女はにやりと笑った。
「あなた、いい目になったじゃない」
その拍子に、パンくずがぽろりと卓に落ちた。
「竜はこぼさないわ」
「落ちてる」
ミラが、くすりと笑った。
*
打ち合わせが終わる頃、窓の外が、わずかに青くなりかけていた。
ガレスが、一人で、裏庭に立っているのが見えた。
俺は、外に出た。
「眠れないのか」
「……ああ」
ガレスは、空を見上げたまま答えた。
「三つ目の借り物は、叙勲の称号だ。王から授かる『勇者』の肩書き。それを、人前で捨てる。分かってる」
「怖いか」
「怖い」
彼は、正直に言った。
「俺は、あの肩書きのために、全部使ってきた。お前も、仲間も。捨てたら、残るのは、パンを誤魔化して食った子供だけだ」
「ガレス」
「弟の名前は、ルカだった」
ガレスの声が、掠れた。
「四つだった。俺は、自分の分も、あいつの分も食って、冬を越えた。ルカだけが、春を見られなかった」
俺は、黙って聞いていた。
「勇者になりたかったのは、名前が欲しかったからだ。偉くなれば、あの冬を、誰かが許してくれる気がして」
「許してほしかったのか」
「……ああ。誰にでもいい」
俺は、彼の手を取った。
【鑑定】
名称:ガレス
真の名:ガレス・ブレイズ
状態:名縛り(進行率33%)
追記:借り物は「肩書き」。その奥に、弟ルカの兄であろうとした誓いがある。誓いは、偽りではない
指先が、わずかに震えた。
「ガレス。捨てるのは、王の肩書きだ。誓いまで、捨てなくていい」
「誓い……」
「お前が勇者になりたかった理由は、本物だ。肩書きがなくても、お前は、お前のままだ」
ガレスは、長い沈黙の後、掠れた声で聞いた。
「壇に立つ前に、捨てなきゃいけないんだったな」
「ああ。壇の階段の手前、民衆の前でだ。ロデリクが言っていた。壇の上に立てば、名の収穫に同意したことになる」
「なら、階段の下で言う。俺の名を、自分で」
ガレスは、拳を握った。
「ルカの兄、ガレス・ブレイズだと」
夜明け前の風が、裏庭を吹き抜けた。
「リオ。俺は、お前を、これからも名前で呼ぶ」
「頼む」
「お前も、俺を、鑑定士の目じゃなく、ただの同期として呼んでくれるか」
「それは、まだ難しい」
ガレスは、苦笑した。
「だよな」
彼の目尻が、朝焼けの色に染まっていた。
*
夜明けと同時に、王都の鐘が三度鳴った。
宿の前に、全員が揃った。
バルトは、兵の装束に銀の鍵を忍ばせて。ミラは、聖女の杖を。セレスティアは、杖と巻物を。ロデリクは、鐘を抱えて。ヴェルディアは、牙を腰に差して。
ガレスは、安物の鉄剣を腰に、手には何も持たず。
「全員、生きて帰るぞ」
「勇者みたいなことを」
「もう、勇者じゃない。……もうすぐ、な」
彼は、くしゃりと笑った。
ロデリクは、俺たちと別れる前に、胸の前でそっと手を握った。
「名は、思い出した。だが、封は、まだ解かない。解くのは、すべてが終わってからだ」
「必ず、終わらせる」
老人は、鐘を抱え、広場の端の鐘楼へ向かっていった。
その背中は、十五年分、小さくなっていた。
*
王城前の大広場は、民衆で埋め尽くされていた。
高い壇の上に、白い礼装の少年が、一人で立っていた。
十代半ばの、穏やかな目。栗色の髪。
細密画の、レオンと同じ顔。
「リオ」
壇の上の少年が、微笑んだ。
その声は、頭の中で聞いた、あの粘ついた声だった。
「来てくれたね。待っていた」
民衆が、歓声を上げる。
俺の手の中で、ヴェルディアの指が、わずかに冷たくなった。
「平気か」
「平気よ。……少し、昔を思い出しただけ」
彼女は、顎を上げた。
「リオ。読みなさい」
俺は、壇上の少年を、まっすぐ見据えた。
【鑑定】
名称:アルカディア王(初代)
器:レオン・ヴァン(意識は抑圧下にある)
真の名:――(空白)
状態:解除率20%/防護残量80%(リオ側)
黒く潰れてすらいない。
名前の欄が、ただ、白く、空いていた。
「……王には、名前がない」
「なに?」
ヴェルディアが、息を呑んだ。
「黒塗りじゃない。最初から、空白だ。他人の名を奪い続けて、自分の名前が、どこにも残っていない」
「だから、ずっと奪っているのね」
壇上の少年が、くすりと笑った。
「よく読めるね、リオ。そう。僕には、名前がない。だから、君の名前が、欲しい」
声が、優しいまま、深く沈んだ。
「さて、役者は揃った。余興を始めよう」
少年が、手を上げた。
壇の後ろの幕が、ゆっくりと開いた。
そこに、寝台があった。
白い寝台に、栗色の髪の女が、静かに眠っている。
顔は、覚えていない。それでも、一目で分かった。
母だった。
「……そんな。保管庫の中のはずじゃ」
「昨夜、歌が聞こえてね」
少年は、微笑んだ。
「君が歌ってくれたおかげで、母君の居場所を、動かす決心がついた。ありがとう」
背筋が、冷えた。
地下で眠っているはずの母が、壇の上にいる。
バルトの突入は、空振りになる。
「母君の延命術は、僕が握っている」
少年は、自分の指を、ゆっくりと持ち上げた。
「この指を下ろせば、術は切れる。母君は、この朝日が昇りきる前に、息を止める」
民衆の歓声が、遠のいた。
「リオ。壇に上がっておいで。そして、母君に代わって、三節目を、歌ってくれ」
少年の笑みが、一層深くなった。
「名を差し出すか、母君を失うか。さあ、選んで」
隣で、ヴェルディアが、静かに呟いた。
「リオ。計画は、もう使えないわ」
彼女の手は、冷たいのに、強く、俺の手を握り返していた。
「でも、あなたが選ぶ道なら、私が、牙になる」




