第一話 ピュア・ラブ Last Sip
第一話「ピュア・ラブ」、最後の一口です。
雨が上がり、バーをあとにした良子。
駅へ向かう彼女を、背後から呼び止めたのは――。
消えた取引先の男性。
感じ続けていた視線。
そして、バーテンダーが伝えようとした言葉。
すべての意味が明らかになる「Last Sip」を、最後までお楽しみください。
「良子」
背後から、自分の名前を呼ぶ声がした。
良子は振り返った。
街灯の下に、友田忍が立っていた。紺色の傘を閉じたまま手に持ち、少し離れたところから良子を見つめている。
「忍?」
知っている顔を見つけた安堵から、良子の頬が緩んだ。
「びっくりした。こんな時間にどうしたの?」
忍は答えず、ゆっくりと良子に近づいてきた。
「良子こそ、こんなところで何してたの?」
「前に忍と行ったバー。雨宿りがてら、ちょっと飲んでた」
「一人で?」
「うん。忍は? この辺に用事でもあったの?」
「ずっと後ろにいたから」
良子の笑みが、わずかに止まった。
「え?」
「今日だけじゃない。最近、良子が会社から帰るところを、ずっと見てた」
雨上がりの道路を、車が水を跳ねながら通り過ぎた。
「じゃあ……最近、私が感じてた視線って」
「たぶん、私」
良子はしばらく忍の顔を見つめたあと、胸元に手を当てて大きく息を吐いた。
「なんだ。私、てっきりあの人かと思ってた」
「あの人?」
「この前話したでしょ。告白を断ってから、会社を無断で休んでる取引先の人」
忍の目が、わずかに細くなった。
「良子は、あの人に後をつけられてると思ってたの?」
「うん。でも、忍だったなら安心した」
「安心したんだ」
忍は小さく呟いた。
その声に何か引っかかるものを感じたが、良子は深く考えなかった。
「もう、本当に怖かったんだから。忍なら普通に声かけてよ」
忍は答えなかった。
しばらく良子を見つめたあと、駅とは反対の方向へ顔を向けた。
「少し、話さない?」
良子はスマートフォンで時間を確認した。
「少しだけなら。終電もあるし」
二人は、通りから外れた小さな公園へ向かった。
雨に濡れたベンチの前で、忍が足を止める。遊具もない狭い公園に、人の姿はなかった。
濡れた木々から、遅れて落ちる雫の音がする。
「今日のこと、怒ってる?」
良子が尋ねた。
「紹介した人と付き合えないって話なら、気にしなくていいんだよ。合わないなら仕方ないし」
「どうして、あの人を私に紹介したの?」
「どうしてって……忍に合いそうだと思ったから」
「私は、そんなこと頼んでない」
「それはそうだけど。忍にも幸せになってほしかったから」
「私の幸せを、良子が勝手に決めないで」
忍の声は穏やかなままだった。
しかし、その静けさが良子を不安にさせた。
「今日、良子は言ったよね」
忍はゆっくりと顔を上げた。
「自分も好きでもない人からの告白を断ったんだから、私も無理に付き合わなくていいって」
「うん。だから、紹介した人のことは――」
「そのとき、分かったの」
忍の声が、良子の言葉を遮った。
「良子は、私が誰を好きなのか、一度も考えたことがないんだって」
「忍……?」
「ずっと隣にいたのに」
忍の目から、涙がこぼれた。
「忍は、私の一番の親友だから」
「私は、親友になりたかったんじゃない」
良子は何も言えなかった。
女子校のテニスコート。放課後の教室。試合の帰りに二人で食べたアイス。良子が失恋するたび、夜遅くまで話を聞いてくれた忍。
いくつもの記憶が浮かんだ。
けれど、そのどこにも、良子が今まで見ていた忍はいなかった。
「良子が前に出るたび、私は後ろで守った」
忍はかすかに笑った。
「ダブルスのときから、ずっとそうしてきたのに。一度も振り返ってくれなかった」
「だったら、言ってくれればよかったのに」
「言ったよ。何度も」
忍の声が震えた。
「あなたが、全部聞き流しただけ」
良子は反射的に一歩下がった。
忍も一歩、距離を詰めた。
「良子が、もう恋愛はいいって言ったとき、嬉しかった」
「仕事に集中したいって意味で――」
「ようやく、私を選んでくれると思ったのに」
「忍……」
「それなのに、先週、あの人から告白されたって話をした」
「でも、断ったって話したでしょ?」
「断っても、あの人は諦めてなかった」
良子の背中に、冷たいものが走った。
「どうして、そんなことを知ってるの?」
「あの人に聞いたから」
忍は涙を拭おうともせず、良子を見つめていた。
「三日前、私、あの人に会いに行ったの」
「会いに?」
「良子に近づかないでって、お願いするつもりだった」
忍は、自分に言い聞かせるようにゆっくりと話した。
「でも、あの人、言ったの。今は断られても、そのうち気が変わるかもしれないって」
良子の喉が、小さく鳴った。
「そんなこと、許せなかった」
「忍……あの人に、何をしたの?」
長い沈黙のあと、忍は答えた。
「殺した」
遠くで、電車の走る音がした。
良子は忍から目を離せないまま、バッグの中へ手を入れた。スマートフォンを探す指が震える。
忍は、その動きに気づいていた。
「もう、無理なの」
「何が……?」
「私、あの人を殺しちゃったし」
忍の右手が、コートのポケットに入った。
「捕まったら、もう良子とも会えなくなる」
取り出した手には、小さなナイフが握られていた。
街灯の光が、濡れた刃に白く映った。
「だから、一緒に死のう」
良子は息を呑み、後ろへ下がった。
「待って。忍、落ち着いて。二人で警察に行こう。私も一緒に話すから」
「また、そうやって世話を焼くの?」
「違う。助けたいの」
「私が欲しかったのは、そんな優しさじゃない」
忍が一歩近づく。
良子はスマートフォンをつかみ、バッグから引き抜こうとした。
忍が駆け寄った。
良子は腕を振りほどこうとして、濡れた地面に足を滑らせた。身体が傾き、背中から地面へ倒れる。
息が詰まる。
起き上がろうとした良子の上に、忍が覆いかぶさった。
「なんで……」
涙が、忍の頬を伝って落ちた。
「なんで、あなたはいつも私を見てくれないの?」
刃先が震えていた。
「私はいつも見てたのに」
「忍、やめて――」
「あなたのことだけ、ずっと見てたのに」
忍の腕が動いた。
雨の匂いが残る公園に、短い悲鳴が響いた。
やがて、何も聞こえなくなった。
忍は動かなくなった良子を抱き起こし、その身体を強く抱き締めた。
「これで、ずっと一緒だよ」
その声に答える者はいなかった。
忍は良子の肩に顔を埋めたまま、ナイフを握り直した。
*
数日後、事件はニュースになった。
駅近くの公園で二人の女性が倒れているのを、早朝の通行人が発見した。
瀬和良子は、その場で死亡が確認された。
友田忍は病院へ搬送されたが、まもなく死亡した。
警察が忍の足取りを調べる過程で、数日前から行方不明になっていた商業施設の男性社員との接触が判明した。
忍の携帯電話に残された位置情報などをもとに捜索した結果、男性の遺体が発見された。
警察は、忍が男性を殺害したあと良子をつけ回し、無理心中を図ったものとみて捜査を進めた。
*
閉店後のバーには、氷が溶けるかすかな音だけが残っていた。
バーテンダーは、良子が座っていたカウンターの一角へ目を向けた。
あの夜、もう少し強く引き止めていれば。
そう考えなかったわけではない。
だが、自分が知っていたのは、友田忍が瀬和良子へ向けていた視線だけだった。
以前、二人で店を訪れた夜。
良子が楽しそうに話すあいだ、忍はほとんど彼女から目を離さなかった。
穏やかで、優しくて、それでいて、怖いほど深い眼差しだった。
そこに恋慕があることは分かった。
だが、その純粋に見えた想いが、やがて執着へと変わり、人の命まで奪うことになるなど、知る由もなかった。
バーテンダーは棚からラズベリーのリキュールを取り出した。
鮮やかな赤い液体が、照明を受けて揺れる。
純粋な想いが、必ずしも人を幸せにするとは限らない。
混じり気のない想いほど、ほかの何かが入り込む余地を失ってしまうこともある。
入口のベルが鳴った。
バーテンダーはボトルを棚へ戻し、扉のほうへ顔を向けた。
新しい客が、濡れた傘を畳みながら店内を覗いている。
「まだ、いいですか?」
バーテンダーは静かに一礼した。
「ええ。どうぞ」
客がカウンターへ向かう。
バーテンダーは、いつもと変わらない声でその客を迎えた。
「いらっしゃいませ」
第一話「ピュア・ラブ」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
忍が抱き続けた想いは、純愛だったのか。それとも、いつの間にか歪んだ執着へ変わってしまったのか。
読み終えたあと、「ピュア・ラブ」という名前が少し違って見えていたらうれしいです。
次回は、また別のカクテルと、新たな客の物語をお届けします。
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それでは、次の一杯が出来上がるまで、少しだけお待ちください。




