第6話 アメリカン・レモネード Second Sip
思い出の中にしかいないはずの人。
その人を見かけたと告げられたら、あなたは何を思うでしょうか。
アメリカン・レモネード、二口目。
恋次は、亜衣子の言葉の続きを聞きます。
「……今、何と?」
恋次は、目の前の女性を見つめた。
聞き間違いだと思った。
そうでなければ、彼女が何かを勘違いしている。
「この方に、よく似た女性がいらしたんです」
女性はスマートフォンの画面へ、もう一度目を落とした。
「髪型は違いますし、お写真のほうがお若いですけど……笑ったお顔が、そっくりで」
恋次は画面を自分のほうへ戻した。
笑子が笑っている。
十年以上、変わらない顔で。
「いつですか」
「先週です」
「一人で?」
「いえ。男性の方と、お二人で」
恋次は頷いた。
何に頷いたのか、自分でも分からなかった。
「亜衣子さん」
マスターが、女性へ静かに声をかけた。
「私にも、お写真を見せていただけますか」
恋次は無言でスマートフォンを差し出した。
マスターは画面をしばらく見つめていた。
「……確かに、よく似ていらっしゃいます。こちらの女性も、アメリカン・レモネードを召し上がっていました」
恋次は、目の前のグラスへ視線を落とした。
マスターは、もう一度画面へ目を向けた。
「このお酒には、大切な思い出がある気がするとお話しされていて。それで、少し印象に残っていたんです」
息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
恋次は背筋を伸ばし、膝の上で手を握った。
同じ顔の人くらい、いるかもしれない。
同じお酒を好きな人だって、いる。
それでも、胸の奥で何かが激しく動き始めていた。
「思い出がある気がする、というのは……?」
亜衣子が、マスターへ目を向けた。
それから恋次を見る。
「ご本人から伺ったお話なんですが」
「はい」
「昔の記憶が、ないそうなんです」
恋次の手から、力が抜けた。
「記憶が……」
「事故に遭われて、それより前のことが思い出せないって。お名前も、どこで暮らしていたのかも、分からなかったそうです」
恋次は口を開いた。
けれど、言葉が出てこなかった。
電話が来なかった。
どれだけ待っても、連絡はなかった。
自分の名前も、暮らしていた場所も分からなかったのなら。
帰りたくても、帰れなかったのなら。
「その事故は、いつ……」
「詳しいことまでは、伺っていません」
マスターが答えた。
「お客様。このお写真だけで、奥様だと申し上げることはできません」
「……分かっています」
恋次は頷いた。
分かっている。
そう言いながら、もう一度写真を見た。
見慣れた笑顔が、さっきまでとは違って見えた。
どこかで年を重ねている笑子。
知らない服を着て、知らない道を歩き、自分の知らない話に笑っている笑子。
そんな姿を、思い浮かべたのはいつ以来だろう。
「このお酒を飲むと、何か思い出せる気がするそうです」
亜衣子が言った。
「何も浮かばないけれど、とても大切なことのような気がするって……」
恋次は、グラスへ目を向けた。
綺麗でしょう。
そう言って、目の前へ差し出された一杯。
いらないよと言っても、ひと口だけ、と笑っていた。
その声が、すぐそばで聞こえた気がした。
「……会えますか」
自分の声が、ひどく小さかった。
「その人に、会うことはできますか」
亜衣子の表情が揺れた。
マスターがカウンターへ手を置いた。
「明日の夜、お二人でいらっしゃる予定です」
「明日……」
こんなに近い日を、ずいぶん遠く感じた。
恋次はスマートフォンを伏せた。
手が震えていた。
今夜は、もう飲めないかもしれない。
それなのに、目の前の一杯を残して帰ることもできなかった。
「七時に、お席をご用意しています」
「ありがとうございます。私も、そのころに」
「あの……」
亜衣子が、小さく声を挟んだ。
恋次は顔を上げた。
「実は……」
その先を言いかねているようだった。
胸の中に、冷たいものが落ちた。
「何か、あるんですか」
亜衣子は唇を結んだ。
それから、ゆっくりと言った。
「一緒にいらしていた男性から、結婚を申し込まれているそうなんです」
恋次は、彼女を見たまま動かなかった。
店の音が、少し遠くなった。
「お返事を、待ってもらっているそうで。次にここへ来たときに答えると……」
明日の七時。
その時間が、さっきとは違う意味を持った。
亜衣子は、もう何も言わなかった。
恋次は伏せたスマートフォンへ手を置いた。
男性と、二人で。
初めに聞いた言葉が、ようやく胸に届いた。
「……その方とは、長いんですか」
「長く、お付き合いされているようでした」
マスターが答えた。
「女性がお話に詰まると、急かさずに待っていらっしゃいました」
恋次は、その男性を思い浮かべようとした。
顔も、声も分からない。
笑子が困っているとき、そばにいた人。
自分がいない年月を、一緒に過ごした人。
「笑っていましたか」
気づくと、そう尋ねていた。
亜衣子が目を上げた。
「その人は……楽しそうでしたか」
「……はい」
亜衣子は頷いた。
「男性のお話を聞いて、よく笑っていらっしゃいました」
恋次は息を吐いた。
長く、ゆっくりと。
「そうですか」
グラスに手を伸ばす。
氷が溶けて、ずいぶん薄くなっていた。
一口飲んだ。
飲み込むまでに、少し時間がかかった。
「お会いになるのでしたら」
マスターが言った。
「まず、お顔を確かめられては。その先のことは、お会いになってからでも」
恋次は頷いた。
会って、何を言えばいいのだろう。
笑子、と呼ぶのか。
ずっと捜していたと、伝えるのか。
目の前で、知らない人を見る顔をされたら。
それでも会いたいと思う自分がいた。
恋次はグラスを置き、薬指の指輪へ触れた。
「明日……また、来てもいいですか」
「もちろんです」
マスターは、それ以上尋ねなかった。
恋次はスマートフォンを持ち上げた。
画面をつけると、二人の写真がそのまま残っていた。
笑子は、自分の肩に顔を寄せて笑っている。
恋次はしばらくその顔を見つめてから、画面を閉じた。
お読みいただき、ありがとうございます。
会いたいと願い続けてきた人にも、自分の知らない時間が流れている。
その人が笑っていると聞いて、恋次は何を感じたのでしょうか。
次は、Last Sip。
同じカウンターで、もう一つの想いに耳を傾けていただければ嬉しいです。




