第6話 アメリカン・レモネード Last Sip
忘れられない人がいる。
思い出せない、大切な何かがある。
同じカクテルを前に、それぞれの想いが重なる夜。
アメリカン・レモネード、最後の一口。
今夜は、彼女の心に耳を傾けていただければと思います。
今日は、約束よりも早く着いてしまった。
新見可子は、スマートフォンの時刻を確かめた。
六時半。
彼が来るまで、まだ三十分ある。
店の前で時間を潰そうかとも思ったが、結局、そのまま階段を下りた。
丸窓のついた扉を開ける。
「いらっしゃいませ」
聞き慣れたマスターの声に、少しだけ肩の力が抜けた。
「こんばんは。少し早く来てしまって」
「どうぞ。お連れ様は、後ほどですね」
「はい」
可子はカウンターの中央あたりに腰を下ろした。
バッグを隣の椅子へ置き、差し出されたおしぼりで手を包む。
「いつもの、アメリカン・レモネードでよろしいですか?」
「お願いします」
マスターが頷いた。
この店に来ると、いつも同じものを頼む。
ほかのお酒を試してみようと思うこともあるけれど、結局、口にする名前は変わらなかった。
ほどなくして、目の前にグラスが置かれた。
淡いレモネードの上に、赤ワインが重なっている。
可子は、その境目をしばらく眺めた。
「……やっぱり、綺麗ですね」
「ありがとうございます」
グラスへ手を伸ばす。
一口飲むと、甘酸っぱさのあとから、ワインの香りが広がった。
胸の奥が、かすかに動く。
何かを思い出せそうな気がした。
もう少し。
あと、ほんの少しで。
けれど、その先には何も浮かばない。
いつも、そうだった。
可子の記憶は、病院のベッドの上から始まっている。
目を開けたとき、最初に見えたのは、白い天井だった。
自分がなぜそこにいるのか、分からなかった。
病室のテレビでは、一週間前に起きた地震のニュースが流れていた。
何度も映し出される、津波の映像。
自分も、その波にのまれたらしい。
奇跡的に助かったのだと、あとから聞かされた。
けれど、何も覚えていなかった。
どこに住んでいたのか。
誰と暮らしていたのか。
そして、自分の名前さえも。
問いかけられるたび、答えを探した。
目を閉じて、思い出そうとした。
それでも、何も浮かばなかった。
体が回復しても、過去は戻らなかった。
帰る家も、自分を待つ人がいるのかどうかも、分からないままだった。
ただ、不思議なことに、好きなカクテルだけは覚えていた。
アメリカン・レモネード。
その名前と、二つに分かれた綺麗な色。
再び口にできたとき、懐かしさが胸いっぱいに広がった。
知っている。
この味を、自分は知っている。
けれど、思い出せたのは、そこまでだった。
誰と飲んだのか。
どんな話をしたのか。
それは、今も分からない。
この一杯には、とても大切な思い出がある。
そう感じるたびに、可子はグラスを手に取った。
目の前のお酒を、もう一口飲む。
やはり、何も浮かばなかった。
カウンターへ置いたスマートフォンに目を落とす。
彼からの連絡は、まだない。
行く場所も、頼る相手も分からなかった可子に、手を差し伸べてくれたのが彼だった。
体調が戻ると、介護施設のヘルパーとして働けるようにしてくれた。
住まいを探し、新しい名前で暮らすための手続きにも、一緒に足を運んでくれた。
新見可子。
最初は呼ばれても、自分のことだとすぐには分からなかった。
今では、自然に振り返ることができる。
施設で仕事を覚え、少しずつ人の顔と名前を覚えた。
初めて給料をもらった日には、彼に食事をご馳走した。
何を頼めばいいか迷う彼を見て、可子は久しぶりに声を上げて笑った。
そのころからだったと思う。
世話になった人に会う、というだけではなくなったのは。
仕事であったことを話したい。
美味しいものを見つけたら、一緒に食べたい。
そんなふうに、彼を思い浮かべるようになっていた。
彼は、記憶のない可子を、そのまま受け入れてくれた。
思い出せないことを責めず、無理に思い出させようともしなかった。
思い出すかもしれないことも、怖がらなかった。
結婚しよう。
そう言われたとき、嬉しかった。
けれど、その場では頷けなかった。
自分には、忘れている誰かがいるかもしれない。
そう打ち明けても、彼は黙って聞いてくれた。
「ゆっくり考えてくれていいよ」
その言葉に甘えて、今日まで待ってもらった。
彼と過ごす毎日は、穏やかだった。
これからも、一緒にいたいと思う。
それなのに。
何か、とても大切なものを忘れている。
その思いが、いつも胸のどこかに残っていた。
誰かと約束をしただろうか。
待っていてくれる人が、いただろうか。
考えても、答えは出ない。
もう十年以上、思い出せないままでいる。
この記憶は、戻らないかもしれない。
戻らないものを待ちながら、彼まで待たせ続けていいのだろうか。
可子はスマートフォンを裏返した。
今夜、答える。
そう決めて、この店を選んだ。
好きなお酒を飲みながらなら、きちんと言葉にできる気がしたから。
そのとき、ふと、マスターの声がした。
「アメリカン・レモネードです」
私と同じカクテルだ。
そう思い、可子はマスターがグラスを置いた席へ目を向けた。
空いた椅子を二つ挟んだ向こうに、一人の男性が座っていた。
男性も、こちらを見ていた。
「同じですね」
可子はグラスへ軽く指を添えた。
「私、これが好きなんです」
男性は、すぐには答えなかった。
こちらを見つめたまま、唇を少し動かす。
何か言いかけたように見えた。
可子は首を傾げた。
不意に話しかけて、困らせてしまっただろうか。
「……ええ」
ようやく、男性が頷いた。
その声は、少しかすれていた。
「私が愛した人が、好きだったお酒なんです」
可子は、添えていた指を止めた。
愛した人。
好きだったお酒。
どちらも、過去のこととして語られていた。
もう、別れてしまったのだろうか。
そう思ったとき、男性の目から涙がこぼれた。
一筋、頬を伝っていく。
……亡くなられたのかもしれない。
可子は、グラスに添えられた男性の手へ目を落とした。
今も、その人を想って、このお酒を飲んでいるのだろうか。
「……あの」
声をかけたものの、何と言えばいいのか分からなかった。
男性は涙を拭おうとして、それから、困ったように笑った。
可子の胸が、小さく痛んだ。
なぜ、そんな顔をするのだろう。
自分は、何も知らないのに。
その人が誰を想っているのかも、どんな日々を過ごしてきたのかも。
知らないはずなのに、目を逸らせなかった。
「……すみません」
男性が言った。
謝りながら、まだ笑っていた。
嬉しそうにも見えた。
ずっと待っていたものを、ようやく見つけたような。
可子はグラスを置いた。
声を聞いていたかった。
もう少し、この人と話していたかった。
胸の奥で、何かがほどけそうになる。
けれど、名前も、景色も、何ひとつ浮かばなかった。
ただ、目の前の人を、そのままにはしておけなかった。
「どうして……」
可子は、男性の顔を見つめた。
「泣いているのに、そんなに笑っているんですか?」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
アメリカン・レモネードのカクテル言葉は「忘れられない」。
忘れられなかった恋次と、思い出せないまま大切な何かを感じていた可子。
あの問いかけのあと、二人は何を話したのでしょう。
そして、彼女はどんな未来を選んだのでしょうか。
その先は、皆さんの想像にお任せしたいと思います。
あなたの心に浮かんだ続きを、二人の物語として残していただけたら嬉しいです。
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それでは、また次の一杯で。




