第6話 アメリカン・レモネード First Sip
少し間が空いてしまいました。
久しぶりの『SHAKER & STIRRER』です。
またこのお店を訪れてくださり、ありがとうございます。
今回の一杯は、アメリカン・レモネード。
淡いレモネードに、赤ワインが重なるカクテルです。
ある味や香りに触れた瞬間、懐かしい誰かの顔が浮かんだことはありませんか。
今夜は、そんな一杯を飲み続ける男性のお話。
まずは、一口目からお付き合いください。
我妻恋次は、地下へ続く階段の前で足を止めた。
小さな看板に、店名が記されている。
――Life is Bar。
なぜだろう。その名前が、妙に心に引っかかった。
少しだけ看板を見つめてから、恋次は階段を下りた。
突き当たりの扉には、丸い窓がついている。向こうに見える柔らかな明かりを確かめ、そっと扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中から、マスターが穏やかに迎えた。
恋次は店内を見渡した。
控えめな照明。背後の棚に並ぶ酒瓶。小さく流れるピアノの音。
「一人なんですが」
「どうぞ。お好きなお席へ」
恋次はカウンターの奥から二つ目の椅子を引いた。
若い女性の店員がおしぼりを差し出してくれる。軽く頭を下げて受け取り、両手を包んだ。
「何になさいますか」
「アメリカン・レモネードを、お願いできますか」
「かしこまりました」
マスターはグラスに氷を入れ、レモンジュースとシロップ、水を合わせた。
続いて、バースプーンを添えながら赤ワインを静かに注ぐ。
淡い色のレモネードの上に、深い赤がゆっくりと広がっていった。
「お待たせいたしました。アメリカン・レモネードです」
目の前へ置かれたグラスを、女性の店員が覗き込む。
「マスター、綺麗なカクテルですね」
「ええ。二つの色が、綺麗に分かれるでしょう」
グラスの表面を、小さな水滴が伝った。
「このカクテルには、『忘れられない』というカクテル言葉があるんですよ」
恋次は、グラスに触れかけた指を止めた。
「……そうなんですね」
そんな意味があるとは、知らなかった。
赤い層を見つめているうちに、自然と言葉がこぼれた。
「実は、このカクテルは、私にとって忘れられないお酒なんです」
「何か、思い出があるんですか?」
女性に尋ねられ、恋次は頷いた。
「妻が、好きだったんです」
マスターは何も言わず、続きを待っていた。
「私は、昔からビールかウイスキーばかりで。こういうお酒は、ほとんど飲まなかったんですが」
恋次はグラスを少し持ち上げた。
「妻と店に行くと、いつもこれを頼むんです。綺麗でしょう、って。飲む前に、必ず私に見せるんですよ」
「お気に入りだったんですね」
「ええ。少し飲ませてもらったこともあるんですが、そのころは、私には甘いなと思っていました」
「今は、お好きなんですか?」
「今は……どうでしょうね」
恋次は少し考えた。
「美味しいかどうかよりも、これを飲むと、妻のことを思い出すんです」
グラスを口元へ運ぶ。
甘酸っぱさのあとに、赤ワインの香りが残った。
一口飲んでから、ゆっくりとカウンターへ戻す。
「妻は、笑子といいます。笑う子と書いて、しょうこ」
「素敵なお名前ですね」
「その名の通り、笑顔の似合う、よく笑う妻でした」
思い出す顔は、いつも笑っていた。
「私の話なんて、大して面白くもないのに。そんなことで笑うのかって、こっちが呆れるくらい」
「奥様には、面白かったんですよ」
「そうだといいんですがね」
小さく笑って、薬指の指輪に触れた。
女性の視線が、その指先へ落ちた。
「今日は、奥様は……」
言いかけた彼女へ、恋次は答えた。
「もう、いないんです」
「……すみません」
「いえ。私から話し始めたことですから」
軽く首を振る。
「十年以上前になります。あの地震で、津波に巻き込まれて」
女性が口を閉じた。
マスターは、手にしていた布を静かに置いた。
「私は仕事で、別の場所にいました。妻とは、電話もつながらなくて」
あの日、何度もかけ直した。
耳へ押し当てていた携帯電話の感触を、今も覚えている。
「最初は、どこかへ避難しているんだと思っていました。知らない土地でも、誰かと話して、いつものように笑っているんじゃないかって」
店内に流れるピアノの音が、言葉の途切れた場所を埋めた。
「避難所も、病院も、行けるところは回りました。名前を書いて、写真を持って。何か分かれば連絡をくださいって」
「……見つからなかったんですか」
恋次は頷いた。
「とうとう、見つかりませんでした」
それきり、しばらく誰も話さなかった。
恋次はグラスを見つめた。
先ほどまで分かれていた二つの色が、境目で少しずつ混ざり始めている。
「変なものですね」
やがて、恋次は口を開いた。
「昔は、自分では頼まなかったお酒なのに。今では、こういう店に入ると、こればかり頼んでしまう」
困ったように笑った。
「一緒に飲んだものは、ほかにもあるはずなんですが」
マスターが静かに頷いた。
「奥様が、嬉しそうに召し上がっていたんですね」
「……ええ」
恋次は顔を上げた。
「そうなんです。いつも、本当に嬉しそうでした」
女性の表情が、少し和らいだ。
「奥様のお写真、今もお持ちなんですか?」
「ありますよ」
恋次はジャケットの内側からスマートフォンを取り出した。
写真の一覧を開き、指先で画面を送る。
何度も見返してきた一枚を開いて、女性のほうへ向けた。
「古い写真ですが」
画面には、並んで座る二人が写っていた。
今より若い自分と、その肩に顔を寄せた笑子。
何かを言いかけて笑ってしまった彼女が、口元へ手を添えている。
「結婚して、まだ二年くらいのころです」
恋次は画面の中の笑子を見た。
「このあと、何がおかしかったんだって聞いたんです。そうしたら、あなたが写真だからって変な顔で固まっているから、って」
女性から、返事がなかった。
顔を上げると、彼女はじっと画面を見つめていた。
やがて、確かめるように少しだけ顔を近づける。
「……どうかしましたか?」
女性は唇を開きかけた。
けれど、何も言わずにマスターを見る。
その様子に、恋次はスマートフォンへ目を落とした。
見慣れた、妻の笑顔がある。
「この方……」
女性の声に、顔を上げた。
「この前、こちらにいらっしゃいました」
お読みいただき、ありがとうございます。
かつては妻が好きだったお酒。
今では、自分が頼むようになった一杯。
恋次にとって、アメリカン・レモネードは、思い出の中の妻と過ごす時間なのかもしれません。
けれど、最後に亜衣子が口にしたのは、思いもよらない言葉でした。
続きは、Secondで。
またカウンターでお会いできれば嬉しいです。




