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SHAKER & STIRRER  作者: 猫ネコユズキ


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第五話 ゴッドファーザー Last Sip

今夜も、カウンターにはいつもの二人。


けれど、今日は部下の方にも話があるようです。


それでは、最後の一口をどうぞ。

その夜も、原は先に席へ着いた。


上着を背もたれに掛け、隣の椅子を軽く叩く。


晴人はいつものように、そこへ腰を下ろした。


「今日は気分がいいから、もう一軒くらい行くか」


原は緩めたネクタイを指で引いた。


「役員と話してきたんだよ。やっぱり、数字を出してる人間のことは、ちゃんと見てくれてるな」


「そうでしたか」


「次は、お前も連れていってやるよ」


晴人は小さく笑った。


ビールと、ゴッドファーザー。


二人の前に、いつもの酒が置かれた。


原がジョッキを持ち上げる。


「お疲れ」


「お疲れさまです」


短くグラスが触れ合った。


原はビールを飲むと、晴人の方へ体を向けた。


「お前も、上に行きたいだろ?」


「どうでしょう」


「行きたいに決まってるだろ。いつまでも人の下で働いてたって、面白くないぞ」


原は笑い、晴人の肩へ手を伸ばした。


「俺の言うことを聞いてれば、悪いようにはしないから」


晴人は頷いた。


原の手が肩から離れるのを待ち、グラスを置く。


「そうだ、部長」


「ん?」


「実は私も、ここだけの話があるんです」


原の口元が緩んだ。


「なんだ。お前も何かやらかしたのか?」


晴人は足元の鞄から、携帯電話を取り出した。


伏せていた画面を上へ向け、カウンターに置く。


「これまで聞かせていただいた、部長の武勇伝っていうんですか」


「おい、人聞きが悪いな」


原は笑った。


晴人も、同じように笑っていた。


「……あの、くだらない話」


原の笑いが止まった。


晴人は携帯電話へ指を添えた。


「全部、録音してるんですよね」


音楽が流れていた。


亜衣子が棚から取ったグラスを、カウンターの内側へ静かに置いた。


原は晴人の顔と、携帯電話を交互に見た。


「何言ってるんだ、お前」


晴人が画面に触れる。


小さなスピーカーから、聞き慣れた声が流れた。


『部下の手柄を横取りしたとか言う奴もいるけどさ』


原は携帯電話へ手を伸ばした。


晴人が先に持ち上げる。


『逆に、失敗したら担当の責任だけどな。いちいち俺がかぶってたら、きりがない』


原の手は、カウンターの上に残った。


録音の中で、原が笑っている。


晴人は再生を止めた。


「何の真似だ」


原の声が低くなった。


「こんなもの、勝手に録っていいと思ってるのか?」


晴人は携帯電話を自分の前へ戻した。


「部長が話したことですよ」


「酒の席だろ。冗談も言うよ」


「冗談だったんですか」


「当たり前だろ」


晴人は原を見ていた。


笑みはまだ、口元に残っていた。


「石野さんに言ったことも?」


原の顎がわずかに動いた。


「……その話は、やめろ」


「どうしてですか」


「お前には関係ないだろ」


晴人は頷いた。


それから、指先でゴッドファーザーのグラスを少し回した。


「私の母、父と死別してから、旧姓に戻ったんです」


原は眉を寄せた。


「私も、そのときに母と同じ姓になりました」


氷がグラスの内側へ触れた。


「浦見に」


原は何も言わなかった。


晴人が顔を上げる。


「それまでは、石野っていう名字だったんですよ」


原の唇が開いた。


声は出なかった。


「石野優人の息子です」


カウンターの下で、原の靴が床を擦った。


椅子の背へ体を引いた拍子に、掛けていた上着の袖が揺れる。


晴人はまっすぐに原を見ていた。


「父が亡くなったころ、私はまだ、あなたに会ったことがありませんでした」


「待て」


原が片手を上げた。


「それは、何か……」


「何か、誤解が?」


晴人が尋ねた。


原は口を閉じた。


「私も、そう思いたかったですよ。父が自分の口で話せない以上、本当は何があったのか、分からないままでしたから」


晴人は携帯電話へ目を落とした。


「だから、あなたから聞きたかったんです」


原はビールへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「俺は、本当に死ねなんて……」


「言ってないんですか?」


「そういう意味で言ったんじゃない」


「その意味も、聞かせていただきました」


晴人は画面に触れた。


『黙って仕事に戻ると思ったんだよ』


原自身の声が流れた。


そのあとの笑い声まで聞こえてから、晴人は再生を止めた。


「父は、仕事に戻ったんでしょうね」


原は視線を落とした。


「あなたに言われたとおりに」


「……もう分かった」


原は小さく頷いた。


「俺も、言いすぎたところはあった。それは認める」


晴人は答えなかった。


「だから、落ち着いて話そう。こんな店で話すことじゃないだろ」


原はマスターの方へ目を向けた。


マスターはカウンターの奥に立っていた。


原の前にはビールが、晴人の前にはゴッドファーザーがある。


誰も、二人の間へ入らなかった。


「父の手帳に、休みたいと相談した日のことが書いてありました」


晴人が言った。


「診断書の控えも、母が保管していました」


原は顔を上げた。


「でも、あなたは当時、相談なんか受けていないと説明していた。父の記録と、会社で聞かされた話は違っていました」


晴人は携帯電話に触れた。


「どちらが本当なのか、あなたが教えてくれましたね」


原は口元を歪めた。


しばらく黙ってから、身を寄せる。


「お前、何が欲しいんだ」


声が小さくなっていた。


「会社でのことなら、俺が話をつける。お前の評価だって、どうにでもできるんだから」


晴人は原を見た。


「部長」


「金か?」


「まだ、そういう話をするんですね」


原の頬が引きつった。


しばらく晴人を睨んでから、椅子を前へ寄せる。


「お前だって、ずっと同調してただろ。俺だけが悪いみたいに言うなよ」


「はい。聞いていました」


晴人は頷いた。


「話をやめてほしくなかったので」


原の手が、カウンターの上で握られた。


「明日から、どうなるか分かってるのか」


晴人は携帯電話を手に取り、画面を消した。


「明日は、あなたが説明する日です」


「何?」


「録音は、もう渡してあります」


原は椅子から腰を浮かせた。


「人事か」


その顔に、一瞬、笑みが戻った。


「だったら、俺から話せば――」


「外部の相談窓口を通して、監査の担当者にも渡しました。人事の方を脅したという話も、全部」


原の腰が、椅子へ戻った。


「父の手帳と診断書も、一緒に。当時、父と働いていた方にも、お話を聞けました」


「そんな奴らの話なんか」


原が声を荒らげた。


「今さら何を言ったって、証拠なんかないだろ」


晴人は携帯電話を見た。


それから、原へ視線を戻した。


原は口を閉じた。


「誰も話せなかったんですよね。あなたの下で働いていたから」


晴人は静かに言った。


「今は、もう違います」


原の携帯電話が震えた。


上着のポケットから、短い振動音が続く。


原は慌てて取り出し、画面を見た。


会社からのメールだった。


翌朝九時、指定の会議室で調査担当者との面談を行うこと。その場で、これまでの部下への言動について説明を求めること。


原は一度読んだ文面を、もう一度、上から追った。


晴人はグラスを手に取った。


「父のことも、今の部下のことも、契約のことも。全部、ご自分で話してください」


原は携帯電話を握ったまま、晴人へ顔を向けた。


「お前からも、言ってくれよ」


さっきまでより、声が小さかった。


「少し大げさに話しただけだって。酒が入ってたんだからさ」


晴人は答えなかった。


「浦見」


原が身を寄せる。


「頼むよ」


晴人は原を見た。


「父が休ませてほしいと言ったとき、あなたは何と答えたんでしたっけ」


原の唇が震えた。


「……俺は、そんなつもりじゃなかったんだ」


原は視線をさまよわせた。


「ただ、いつものように、くだらない話をしていただけで……」


晴人はゴッドファーザーを一口飲んだ。


それからグラスを置き、鞄を持ち上げる。


「マスター、自分の分のお会計をお願いします」


「かしこまりました」


マスターが伝票を確認し、晴人の前へ会計用のトレーを置いた。


晴人は示された金額を見て、財布を取り出す。


原が、その袖をつかんだ。


「待てよ。まだ話は――」


「お手を離してください」


マスターの声だった。


原が顔を上げる。


マスターは、原の手を見ていた。


原の指が、ゆっくりとほどけた。


晴人は財布から紙幣を取り出し、トレーへ置いた。


マスターが受け取り、釣り銭を戻す。


晴人はそれを財布に収めると、留め具を閉じた。


「ごちそうさまでした」


椅子を元の位置へ戻し、亜衣子へも頭を下げる。


晴人が入口へ向かっても、原は席に座ったままだった。


扉が開き、ベルが鳴る。


「浦見」


原がもう一度呼んだ。


晴人は取っ手に手を掛けたまま、振り返った。


「石野優人の息子ですよ、部長」


扉が閉まった。


短いベルの音が、店内に残った。


*


原は、それきり店に来なかった。


一人で晴人が訪れたのは、ひと月ほどたってからだった。


以前と同じカウンターへ腰を下ろし、隣の椅子に鞄を置きかける。


少し手を止めてから、鞄を足元へ下ろした。


「ゴッドファーザーをお願いします」


「かしこまりました」


亜衣子がおしぼりを置く。


晴人は礼を言って手を拭き、おしぼりを皿へ戻した。


マスターがロックグラスに氷を入れる。


ウイスキーとアマレットが注がれ、バースプーンが静かに回った。


その手元を眺める晴人の口元には、笑みが浮かんでいた。


一度唇を結んでも、また緩む。


「お待たせしました」


晴人は差し出されたグラスを手に取り、一口飲んだ。


ゆっくりと息をつき、グラスをコースターへ戻す。


「嬉しそうですね」


亜衣子が声を掛けた。


晴人は顔を上げ、自分の口元へ指を当てた。


「……顔に出てましたか」


亜衣子も小さく笑った。


晴人は背筋を伸ばし、亜衣子とマスターへ頭を下げた。


「先日は、お騒がせしてすみませんでした」


「いえ」


マスターが短く答えた。


晴人は顔を上げる。


「でも、ようやく、あいつの処分が決まりまして」


亜衣子の笑みが静まった。


「懲戒解雇です」


晴人は、はっきりと言った。


「契約の担当だった方も、今の部下も、話してくれました。人事の方も」


「そうですか」


亜衣子はカウンターに置いた手を重ねた。


「役員の方にも連絡したそうですけど、調査に答えるように、とだけ言われたみたいです」


晴人はグラスへ手を添えた。


「最後まで、誰かが何とかしてくれると思っていたんでしょうね」


氷が、小さく音を立てた。


晴人はグラスを持ち上げ、灯りに透かした。


しばらく琥珀色の酒を眺めてから、口元を緩める。


「父は、こんなふうに飲んでいました」


亜衣子がグラスへ目を向けた。


「色がきれいだなって。それから、少しだけ飲むんです」


晴人はグラスを傾け、また戻した。


「子どものころ、一度、どんな味か聞いたことがあって」


「何て、おっしゃったんですか?」


「大人になったら、一緒に飲もうって」


亜衣子は口を閉じた。


晴人はグラスをゆっくり下ろした。


マスターが、もう一枚のコースターを取り出す。


それを、晴人の隣の席の前へ置いた。


晴人は顔を上げた。


マスターは何も言わず、棚からロックグラスを手に取った。


大きな氷を一つ。


ウイスキーを注ぎ、続いてアマレットを加える。


バースプーンが、グラスの内側を静かに回った。


琥珀色の酒の中で、氷がゆっくりと向きを変える。


ゴッドファーザー。


家族愛を象徴する、父の好きだった一杯。


晴人は、その手元を見つめていた。


マスターがバースプーンを抜き、グラスを持ち上げる。


出来上がったゴッドファーザーは、隣の席のコースターへ置かれた。


二つのグラスが、カウンターに並んだ。


「あ、あの……これは」


晴人が尋ねた。


マスターはグラスから手を離し、晴人を見た。


「私から、あなたのお父様へ。奢らせてください」


晴人の唇がわずかに開いた。


隣のグラスへ目を向ける。


灯りを透かした琥珀色の酒が、そこにもあった。


晴人はしばらく見つめてから、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


マスターは小さく会釈し、カウンターの奥へ戻った。


晴人は自分のグラスを持ち上げた。


隣に置かれたグラスへ、そっと近づける。


薄いガラスが触れ合い、小さな音が鳴った。


「お疲れさま」


晴人は一口飲んだ。


今夜、晴人は誰の顔色も見ずに、ゆっくりとグラスを傾けた。

第五話「ゴッドファーザー」、最後までお読みいただきありがとうございます。


父と交わすはずだった乾杯。

その一杯に残る想いを、感じていただけたら嬉しいです。


感想やブックマーク、評価も、執筆の励みになります。

また次のお話で、お会いしましょう。

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