第五話 ゴッドファーザー First Sip
今夜のカクテルは、ゴッドファーザー。
カウンターに並んで座る、上司と部下。
仕事の愚痴も、お酒とともに少しずつこぼれていきます。
それでは、一口目をどうぞ。
ベルの音とともに、LIFE is BARの扉が開いた。
短い金属音が二度、店内に響く。
扉が開くにつれて、入口の明かりが床に細い帯をつくった。革靴の爪先がその光を遮り、濃紺のスーツを着た男が姿を見せる。
男はネクタイの結び目を引き下げながら、カウンターを見渡した。
マスターと目が合うと、顎をわずかに上げ、そのまま店の奥へ進む。
後ろから続いた若い男は、片手で扉を押さえていた。
「いらっしゃいませ」
亜衣子の声に、若い男が会釈を返す。
「こんばんは」
取っ手を持ったまま扉を閉めると、ベルがもう一度、小さく鳴った。
先に入った男は、カウンター中央の椅子を引いていた。
上着を背もたれに掛け、腰を下ろす。それから、隣の席を手のひらで軽く叩いた。
「浦見、ここでいいだろ」
「はい」
浦見晴人は男の隣へ歩み寄り、鞄を足元に置いた。
上司の原強史と、その部下。
ここひと月ほど、週に一度か二度、二人はこの店を訪れていた。
亜衣子が温かいおしぼりを差し出すと、原はそれを広げ、顔に押し当てた。
「いやあ、疲れた。とりあえずビール」
「かしこまりました。お連れ様は?」
「ゴッドファーザーをお願いします」
晴人が答える。
注文を受けた亜衣子は、カウンターの内側に戻った。グラスを取り出しながら、マスターのそばで声を落とす。
「また来ましたね、あの二人」
マスターはおしぼりの袋を片づけ、顔を上げた。
「なんか、苦手なんですよね」
「声が大きいから?」
「それもですけど……」
亜衣子は、二人の方へちらりと目を向けた。
原がおしぼりで首筋を拭いている。その横で、晴人は鞄が通路にはみ出さないよう、椅子の下へ押し込んでいた。
「いつも、あの人ばっかり喋ってるじゃないですか。もう一人は、何を言われても笑ってるし」
マスターは短く頷き、ビールのグラスを手に取った。
亜衣子も口を閉じ、ロックグラスを用意する。
大きな氷がグラスの底で、こつりと鳴った。
マスターがウイスキーとアマレットを注ぎ、バースプーンを差し入れる。琥珀色の液体の中で、氷がゆっくりと回った。
映画『ゴッドファーザー』にちなむ、家族愛を象徴する一杯。
甘い香りをまとった酒が、冷えたグラスの中で静かに混ざり合う。
「お待たせしました」
原の前にビールが、晴人の前にゴッドファーザーが置かれる。
「今日は俺が出すからな」
原が言った。
晴人は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。でも、自分の分は払います」
「またそれか。上司の好意は、素直に受けとけよ」
「お気持ちだけで。ご一緒させていただけるだけで、十分ですから」
原は鼻で笑った。
「真面目だねえ、お前は」
晴人も笑い、グラスへ手を伸ばした。
「じゃ、お疲れ」
「お疲れさまです」
晴人は原より少し低い位置でグラスを合わせた。
原はビールを大きくあおり、息をつく。
「ああ、やっと落ち着いた。今日は散々だったよ」
晴人は一口飲んでグラスを置き、体をわずかに原へ向けた。
「例の資料ですか?」
「そう。あいつ、結局やり直してないんだよ。昨日あれだけ言ったのにな」
「まだ、意図が伝わってなかったんですかね」
「伝わってないんじゃなくて、聞いてないんだよ」
原の声が、店内に流れる音楽へ重なった。
「何のために会議に出てるんだって話だろ。分からないなら聞けばいい。それもしないで、言われたことだけやって帰ろうとする」
「部長も、同じことを何度も説明するのは大変ですよね」
「そうなんだよ」
原は勢いよく頷いた。
「お前は、そこが分かってるからいいんだよな」
晴人は小さく笑った。
亜衣子が洗い場へ戻り、蛇口をひねる。
水音がしても、原の声は途切れなかった。
「あいつら、時間になったら帰ることしか考えてないからな。仕事が終わってるかどうかは二の次なんだよ」
「今日も、残ってやり直していたんですか?」
「残らせたよ。当然だろ。俺が確認するまで帰るなって言ってある」
「部長は、もう確認されたんですか?」
「まだ。どうせ時間かかるんだから、こっちまで付き合ってられないだろ」
原はジョッキを持ち上げた。
「責任を持って仕上げる。それも仕事のうちだよ」
「そうですね」
晴人は頷いた。
亜衣子は洗い終えたグラスを伏せ、水を止めた。
「で、ちょっと厳しく言ったら、今度は黙り込むんだよ」
原が続ける。
「こっちが悪いことしたみたいになるだろ、あれ」
「受け止める方にも、問題はありますよね」
「そう。俺だって、嫌いで言ってるわけじゃないんだから」
晴人はまた頷いた。
原が話す間、晴人はほとんど口を挟まなかった。
相槌を打ち、原が笑えば口元を緩める。グラスを手に取っていても、話しかけられるとすぐに置いた。
「お前も、あいつに話してやれよ。俺は期待してるから言ってるんだって」
「はい。明日、声をかけてみます」
「頼むよ。俺が言うと、また萎縮するからな」
原は笑い、残ったビールを飲み干した。
「マスター、同じの」
「かしこまりました」
マスターが空のジョッキを下げる。
その横で、原は晴人のグラスを指さした。
「お前、それ好きだな」
「ゴッドファーザーですか?」
「毎回それじゃないか。たまには違うのも飲めばいいのに」
晴人は手元へ目を落とした。
グラスの中では、少し角の丸くなった氷が、琥珀色の酒に浮かんでいる。
「父が好きだったんです」
「へえ。親父さん、酒飲みなのか」
「家では、そんなに飲んでいませんでしたけど」
晴人はグラスの側面を親指でなぞった。
指先に、小さな水滴がつく。
「これを飲むときは、嬉しそうでした」
「なるほどね」
新しいビールが置かれると、原はそちらへ手を伸ばした。
「俺の親父なんか、日本酒ばっかりだったよ。昔の男は、みんなそうだったな」
原の笑い声に、晴人も顔を上げた。
マスターは空のジョッキを持ち、洗い場へ戻る。
「そういえば、今日、人事からも電話が来てさ」
原が言った。
「人事ですか?」
「例の面談の件だよ。最近は何でも確認、確認。部下の話を聞くのも大事だけど、こっちの立場も考えてほしいよな」
「部長には、何か聞かれたんですか?」
原は答える前に、ビールを一口飲んだ。
亜衣子が皿を棚へ戻す。
陶器の触れ合う音に、原がちらりと目を向けた。
それから晴人の方へ身を寄せ、少し声を落とす。
「まあ、ここだけの話だけどな」
晴人はグラスから手を離した。
「はい」
原はジョッキの取っ手を握ったまま、口元を緩める。
「お前だから言うんだぞ」
「もちろんです」
晴人は、いつもの笑顔で答えた。
一口目、お付き合いいただきありがとうございます。
よく喋る上司と、笑顔で頷く部下。
今夜も「ここだけの話」が始まります。
続く二口目も、お楽しみいただけたら嬉しいです。
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