第四話 ラスティ・ネイル Last Sip
古いボトルを前に、希ママの話は続きます。
第四話「ラスティ・ネイル」、最後のひと口。
どうぞ、最後までお付き合いください。
第四話 ラスティ・ネイル Last Sip
「別の女性と結婚したのよ」
希は、亜衣子の返事を待たずに続けた。
「人づてに聞いたの。本人からは、何も」
亜衣子はボトルの札を見た。宗介が書いたという二人の名前が、変わらず並んでいる。
「理由を聞こうとは、思わなかったんですか」
「何度も思ったわ」
希はグラスの中の氷を見つめた。
「事情があったのかもしれない。でも、私が知っているのは、迎えに来なかったってことだけ」
マスターも亜衣子も、何も言わなかった。
やがて希は、グラスに残ったカクテルを飲み干した。
「美味しかった。昔より、少し甘く感じるわ」
「作り方は変えていませんよ」とマスターが言う。
「じゃあ、変わったのは私ね」
希が笑うと、マスターは空になったグラスに目を落とした。
「ラスティ・ネイルには、『私の苦痛を和らげる』というカクテル言葉もあるそうです」
希の指が、グラスに触れたまま止まった。
少しの沈黙のあと、顔を上げる。
「……それで、これを選んでくれたの?」
マスターは答えず、小さく微笑んだ。
希はもう一度グラスを見つめた。それから、ゆっくりと指を離した。
「マスター。このボトルで、もう一杯作ってくださる?」
「同じものを?」
「ええ。今日は、それで最後にするわ」
マスターは頷き、再びグラスを用意した。
希は二杯目を急がなかった。
店で働く若い子が、ようやく一人でカクテルを作れるようになったこと。いつも同じ話をする常連客が、最近はその話の続きを聞かせてくれること。
亜衣子が笑うたびに、希も楽しそうに笑った。
グラスが空になる頃には、二人の名前が書かれた札も、ごく自然にそこにあるように見えていた。
「残りは、どうしますか」
マスターの問いに、希は少し考えた。
「もう少し、ここに置いておいてくださる?」
「わかりました」
希は札に一度だけ触れ、席を立った。
そのとき、希のバッグの中でスマートフォンの通知音が鳴った。
取り出して画面を見た希の指が、ふと止まる。
ほんの少しだけ、表情が和らいだように見えた。
希は何も言わず、スマートフォンをバッグに戻した。
「亜衣子ちゃん。今度、うちの店にも遊びに来てね」
「はい。ぜひ」
「約束よ」
希は微笑み、マスターに礼を言って扉へ向かった。
亜衣子が見送ると、扉の向こうから小さく手を振ってくれた。
その姿が見えなくなってから、マスターは古いボトルを棚へ戻した。
数日後。
開店前のカウンターで、亜衣子はスマートフォンのニュースを眺めていた。
近くの海で、男女と思われる二人の遺体が見つかったという短い記事だった。
男性は、所持品から湯田宗介さんとみられ、警察が二人の身元の確認を進めている。
亜衣子の指が止まった。
宗介。
棚の奥へ目を向けてから、もう一度、画面の名前を読んだ。
「マスター……これ」
スマートフォンを差し出すと、マスターは手を止めて記事に目を通した。
しばらく画面を見つめたあと、静かに亜衣子へ返す。
「まだ、詳しいことはわからないね」
「……はい」
亜衣子はスマートフォンをカウンターに置いた。
椅子の位置を整えながらも、記事にあった名前が頭から離れなかった。マスターが氷を用意する音が、いつもより大きく聞こえた。
店の電話が鳴った。
亜衣子が受話器を取ると、相手は希の店の名前を告げた。
「はい。先日、いらっしゃいました」
答えたあと、亜衣子は黙った。
受話器の向こうで、相手が何度か言葉を詰まらせた。亜衣子は両手で受話器を持ち、ただ聞いていた。
電話を置いてからも、しばらく振り返れなかった。
「亜衣子ちゃん?」
マスターに呼ばれて、ようやく顔を上げた。
「……希ママが、亡くなったって……」
マスターの手が止まった。
亜衣子はカウンターのスマートフォンに目を戻した。画面には、さっきの記事が残っている。
男女と思われる二人の遺体。
その先に書かれた名前を、もう一度読んだ。
ふと、棚の奥へ目が向いた。
『優希 & 宗介』
亜衣子は口を開きかけたが、何も言えなかった。
「今度、うちの店にも遊びに来てね」
ほんの数日前の声が、まだはっきりと思い出せる。
約束したばかりだった。
札に並んだ二つの名前が、ゆっくりとぼやけた。
亜衣子は瞬きをした。それでも文字は滲んだままで、目を伏せると、頬に一筋の涙が落ちた。
マスターは磨きかけのグラスを、静かにカウンターへ置いた。
棚の奥のボトルには、まだ酒が残っていた。
第四話「ラスティ・ネイル」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
棚に残されたボトルと、二人の名前。
読み終えたあとも、少し心に残るお話になっていたら嬉しいです。
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また、次のお話でお会いできれば幸いです。




