第四話 ラスティ・ネイル Second Sip
「優希は、昔の私の名前なの」
希ママの言葉から、古いボトルにまつわる思い出がほどけていきます。
第四話「ラスティ・ネイル」、二口目。
どうぞ、お付き合いください。
「昔の私の名前なの」
亜衣子は、もう一度ボトルの札を見た。
『優希 & 宗介』
「優希はね、男として生きていた頃の名前。今は希よ」
亜衣子は驚いた。目の前の希から、札に書かれた名前の人物を想像するのは難しかった。
「びっくりした?」
「……はい。ごめんなさい」
「謝らないで。綺麗でしょ、私」
希がいたずらっぽく笑う。亜衣子もつられて笑った。
「近くで店をやってるの。お客さんたちはみんな、希ママって呼ぶわ」
「そうなんですね」
「今夜も出るときに引き止められちゃった。ママがいないと寂しいって。ありがたいわよね」
そう言う希の声は、嬉しそうだった。亜衣子には、彼女の店で笑いながら客を迎える姿が目に浮かぶようだった。
希はグラスに口をつけ、ボトルのもう一つの名前を見た。
「宗介とは、ずっと昔に出会ったの。あの頃は、男同士だった」
マスターが希の前に水を置く。希は礼を言ってから、懐かしそうに目を細めた。
「仕事で嫌なことがあった日も、あの人とここで飲むと、帰る頃には笑ってた。話を聞くのが上手な人じゃないのよ。むしろ余計なことを言って、私を怒らせたりして」
「それでも、一緒にいたかったんですね」
「ええ」
希は迷わず答えた。
「このボトルを入れた日も、私たち、つまらないことで喧嘩したの。何だったかしら。宗介が私のおつまみを勝手に食べたとか、そのくらいのこと」
マスターが、かすかに笑った。
「覚えてますよ。希さんが、もう二度と分けてあげないって」
「あら、そこまで覚えてるの?」
希は照れたようにグラスを傾けた。
「それで、仲直りに一本頼んだのよね。札の名前も、宗介が書いたの。私の名前を先にしてくれた」
亜衣子は、色褪せた文字を見つめた。二つの名前は、今も同じ札に並んでいる。
「私が手術を受けて、今の私として生きると決めたとき、怖くなかったと言えば嘘になるわ。暮らしがどれだけ変わるのか、私にもわからなかったから」
希の指先が、『優希』の文字に触れた。
「宗介は、手術が終わって落ち着いたら迎えに行くって言ってくれたの」
希は小さく笑う。
「『そのとき、ここで続きを飲もう』って」
「だから、ボトルを残していたんですね」
「ええ。二人で飲む分をね」
グラスの氷が、静かに鳴った。
「店を始めて、忙しくなって。お客さんから希ママって呼ばれるようになっても、時々ここへ来たくなった。でも、先に飲んじゃったら、約束がなくなる気がして」
希はボトルの残りを見た。
「宗介は来なかった」
亜衣子は、何も言えなかった。
希は少し間を置いて、穏やかな声で続けた。
「別の女性と結婚したのよ」
Second Sipをお読みいただき、ありがとうございます。
二人で続きを飲むはずだったボトル。
そこには、希ママが忘れられずにいた約束が残っていました。
次のLast Sipで、第四話は完結です。
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