第九話 燃やせない帳簿
帰国して十日後、それは起きた。
深夜、けたたましい鐘の音でわたくしは飛び起きた。窓の外、王宮の方角の空が赤い。火の手が上がったのは文書庫の第三棟――合同監査の押収資料を保管していた、まさにその棟だった。
駆けつけたときには、消火はほぼ終わっていた。人的被害はなし。
だが第三棟の中身は、グレイン商会関連の押収帳簿もろとも、灰になっていた。
「……見事なものね」
夜明けの焼け跡に立ち、わたくしは灰を一掴みした。指の間で、誰かの犯罪の証拠だったものが、さらさらと崩れていく。
「棟は五つあるのに、燃えたのは第三棟だけ。風向きまで計算された放火。内部の案内なしには不可能ですわ」
「お嬢様……悔しく、ないのですか」ミレーヌの声が震えている。
「あんなに徹夜で読み込んだ帳簿が、全部……」
「悔しいわよ。腸が煮えくり返っていますわ。……でもね、ミレーヌ。怒りは今、燃やすものではなく、燃料として取っておくものよ。それに」
わたくしは灰を払い、笑ってみせた。
「敵は焦っている。焦った者は、必ず悪手を打つ。そして今回の放火は――彼らが打ちうる中で、最悪の悪手ですわ」
翌日の合同会議。軍務府側の席から、経理局のダントン局長が、痛ましげな、しかし隠しきれない安堵の滲む声で切り出した。
「押収資料が焼失した以上、まことに遺憾ながら、グレイン商会への嫌疑は立証不能。本件監査は打ち切りとするのが」
「ご心配なく」
わたくしは静かに手を挙げた。会議室の全員の目が、こちらを向く。
「押収帳簿は、原本にすぎません。監査室では受け入れ当日にすべてのページを筆写し、写しを三部作成しております。一部は監査室の金庫。一部はグランフェルト公爵家の書庫。そして一部は――外交文書として、アルヴェイド王国財務省に正式寄託済みですの」
会議室が、凍りついた。セドリック卿が涼しい顔で書類鞄を開き、封蝋付きの束を取り出す。
「その寄託分の認証写し、本日持参しております。両国の公印付き。証拠能力について、疑義の余地はありません。……つまり昨夜の放火は、証拠を消すどころか、『燃やす必要のある者が王宮内部にいる』という、何よりの証拠を一件、追加してくださった」
「な……っ」
「ときに、ダントン局長」
わたくしは、ページを開いた。昨夜のうちに衛兵詰所から取り寄せておいた、一枚の写し。
「火災当夜、文書庫の合鍵の貸出簿に、経理局の印がございますの。貸出時刻は出火の一刻前、返却の記録はなし。ご説明を伺えます? ……ああ、ご安心を。貸出簿も写しを取ってありますから、今夜紛失なさっても、大丈夫ですわよ」
ダントンの顔色が、帳簿の白から、焼け跡の灰の色に変わっていく。
彼の膝が椅子を鳴らして崩れたのは、その三十秒後のことだった。
彼の自白から芋づるは伸びた。貿易商『アルガス』の正体――モルダート商会の元筆頭番頭にして、両国の軍需に寄生の網を張り直していた男。その似顔絵と人相書きが、国境の全関所に配られた。
残る仕事は、ひとつ。網を、静かに絞ることだけ。




