第八話 アルヴェイド王国の「帳簿の令嬢」
合同監査の枠組みは、両国の思惑が一致して驚くほど早く成立した。開戦の火種は、どちらの宮廷にとっても悪夢だからだ。
そしてわたくしは監査団の一員として、生まれて初めて国境を越えた。
馬車が国境の橋を渡る瞬間、ミレーヌが窓に張り付いて歓声を上げた。
わたくしも、はしたなくない程度に身を乗り出した。川の向こうは、同じ色の空。当たり前のことが、妙に胸に残った。帳簿の上で「隣国」と書いてきた場所に、こんなに普通に、人が住んでいる。
アルヴェイドの王都は、石造りの重厚な街だった。そして財務省の書庫に案内されたわたくしは、扇で口を覆うのも忘れて声を上げてしまった。
「まあ……! 証憑が年度別・項目別に製本されて、背表紙に通し番号、しかも相互参照の索引まで……!」
「気に入っていただけたようで」セドリック卿が微笑む。
「我が国は記録の国です。二百年前の飢饉の反省で、穀物台帳から始まった伝統でして。ただし、記録が立派なせいで、改竄も精巧ですが」
「改竄は精巧なほど、痕跡が幾何学的になりますわ。乱れのない不正ほど、見つけやすいものはなくってよ」
「……その台詞、うちの新人研修で使わせていただいても?」
照合作業は、三日三晩に及んだ。アルヴェイド軍務省の調達記録から、グレイン商会と同根の業者を四つ特定。資金は複数の両替商を経由し、最終的にひとつの口座に吸い込まれていた。
名義は貿易商『アルガス』。登記上の所在地は、行ってみれば空き家だという。
「実体のない名義。けれど、金は実体ですわ。必ずどこかで、物か人に変わる」
四日目の夜、財務卿主催の夜会に招かれた。異国の社交界。物珍しさで注がれる視線には慣れている。壁際で杯を持っていると、扇の陰の囁きが、わざと聞こえる声量で流れてきた。
「あれが例の……帳簿の令嬢。殿方に捨てられて、数字に嫁いだ方でしょう」
「まあ、殿方も帳簿相手では敵いませんわねえ」
国が変わっても、言うことは同じなのね。感心しながら聞き流していると。
「――お言葉ですが、ご婦人方」
よく通る声がした。セドリック卿が、杯を手に、にこやかに割り込んでいた。にこやかなのに、目が笑っていない。書類の不備を指摘するときの目だ。
「エルディア嬢の帳簿は、両国で総額二千三百万リルの不正を暴き、開戦の火種をひとつ、静かに消しました。彼女は数字に嫁いだのではありません。数字を従えているのです。……それに」
彼はわたくしを見て、当たり前の事実を読み上げるように言った。
「捨てられたのではなく、精算なさったのですよ。不良債権を」
ご婦人方が扇の陰で凍りつく。わたくしは笑いを堪えるのに、外交上の全努力を要した。
帰りの馬車。石畳の振動に揺られながら、わたくしはずっと窓の外を見ていた。頬が熱いのは、葡萄酒のせいということにしておく。
向かいの席で、彼が咳払いをひとつした。
「エルディア嬢。ひとつ、照合したい件が」
「……何かしら」
「私があなたをお慕いしている件と、あなたのお気持ちです。突合の結果、一致していれば良いのですが」
馬車の車輪が、石を踏んで大きく跳ねた。心臓も、同じくらい跳ねた。
「っ……そ、その件は、監査対象外ですわ!」
「では、いずれ任意のご提出をお待ちします。期限は設けません。ただし」
彼は窓の外の月を見て、静かに付け加えた。
「催告は、時々させていただきます」
この男、数字以外でも、詰め方が丁寧で、逃げ場がない。……逃げたいのかと聞かれると、それはそれで、返答に窮するのだけれど。




