第四十三話 広場の天秤
偽銀貨の噂は、もう火のように広がっていた。
「王国銀貨に贋物が混じっている」――たった一言の噂が、市の商いを内側から凍らせていく。
魚屋は客の銀貨をいちいち秤に載せ、八百屋は灯りに透かし、宿屋は宿賃の受け取りを渋り、誰もが隣の差し出す一枚を疑い始めていた。
昨日まで当たり前に回っていた銀貨が、今日はどの手のなかでも疑いの重さを帯び、市そのものが目に見えぬ熱にうかされていくようだった。
国境の市の両替屋には、朝から長い列ができている。預けた銀貨をいま引き出さねば紙屑になる、とばかりに詰めかけているのだ。取り付け騒ぎの一歩手前で、両替商のボルトンが青い顔をして監査局へ駆け込んできた。
「監査局長さま、もう限界です。うちの蔵の銀貨も、底が見えかけております。このままでは市の両替屋が軒並み潰れ、贋金どころか本物の銀貨まで、誰も信じなくなりまする」
恐慌とは、そういうものだ。二万枚の贋金が毒なら、その毒に怯えて皆が一斉に手を引く恐慌は、もっと速く市を殺す。
犯人の狙いはまさにそこで、二万枚そのものより、それが生む「疑い」のほうで王国の通貨を内側から崩そうとしていた。
「ボルトン。……市の広場を、お借りしますわ。天秤と、正規の銀貨を、ありったけ」
「広場を? 何をなさるおつもりで」
「開きますの。数字を、みんなの前で」
これまで監査局の仕事は、閉じた部屋で帳簿を突き合わせることだった。けれど、いま市を蝕んでいるのは数字そのものではなく、数字が見えないことから来る不安だ。ならば、閉じた数字を広場のまん中に開いてみせるしかない。
その日の午後、市の広場に監査局の臨時検査台が並んだ。中央に据えた大きな天秤の片方の皿には、造幣所で確かめた正規の銀貨。人々は恐る恐る、自分の財布の銀貨をもう片方の皿に載せていく。
「見ていてくださいまし」わたくしは台の上から、集まった人々に声をかけた。
「贋金は羽根一枚ぶん、軽いのです。針がほんの少しでもこちらへ傾いたら、それが疑わしい一枚。傾かなければ、あなたの銀貨は正真正銘、本物ですわ」
最初は遠巻きだった人々が、一人また一人と台に近づいた。パン屋の店主が、先日は疑って受け取れなかった銀貨を載せてみると、針はびくともしない。
「……本物だ。おれの財布のは、ぜんぶ本物だったのか」
「ええ。あなたの銀貨は正しい。疑う必要など、はじめから無かったのですわ」
その一言が、広場にさざ波のように広がった。人々が次々と自分の銀貨を測り、そのほとんどが針を動かさずに戻ってくる。
二万枚は市に出回る二百三十二万枚の、百に一枚にも満たない。大半の財布は初めから無事だったのに、それを確かめる術を、誰も持たなかっただけなのだ。
人垣の後ろに、見覚えのある顔があった。先日パンを買えずにうつむいて帰った、あの若い母親だ。腕の幼子をあやしながら、なかなか台に近づけずにいる。わたくしは自分から歩み寄り、そっと手を差し出した。
「奥さま。よろしければ、その一枚を」
母親が震える手で差し出した銀貨を皿に載せると、針はぴたりと水平のまま、動かなかった。
「……本物、なんですか。これで、パンが」
「ええ。あなたのお金は初めから本物でしたのよ。誰にも疑わせてはいけないお金でしたわ」
母親の目に、じわりと涙が滲んだ。その隣では、先日この母子を追い返したパン屋の店主が、ばつの悪そうな顔で焼きたてのパンを一つ、そっと差し出している。銀貨ははじめから正しかった。ただ、その正しさを開いて見せる者が、いなかっただけだ。
夕暮れには、両替屋の列はすっかり短くなっていた。汗を拭きながらそばへ来たボルトンの顔には、朝の青さのかわりに、いくらか血の気が戻っている。
「局長さま。うちの店にも客が戻ってまいりました。今度は金を引き出すためではなく、預けに、です。……疑いが晴れれば、人はまた預けてくれるんですな」。信用は目に見えないが、こうして数字を開いてやれば、目に見える速さで戻ってくるらしい。
「……不思議なものですわね」隣でミレーヌが呟いた。「数字は、人を追い詰めることも、落ち着かせることもできる」
「同じ数字ですのよ、ミレーヌ。閉じて隠せば人を怯えさせ、正しく開けば人を落ち着かせますの。……監査官の仕事は、たぶんその開き方のほうですわ」
閉ざされた数字が人を追い詰めるのなら、開かれた数字は、同じ速さで人を救える。この一年、暗い部屋で不正を暴くばかりだったわたくしにとって、それは少しばかり新しい発見だった。
もっとも、これはまだ対症療法にすぎない。針を動かした疑わしい一枚を拾い上げながら、わたくしは思った。二万枚の出どころを白日の下に晒さぬ限り、この不安はいつでもぶり返す。
今日の天秤が恐慌を鎮めたのなら、明日は、隠された帳簿のほうを、この同じ広場に引きずり出す番だった。
手帳の摘要欄に、記した。
『広場の天秤、一日で恐慌を鎮む。……ただし鎮痛は治療にあらず。明日、傷そのものを開く』




