第四十四話 三つの帳簿
翌日、広場の天秤の隣に、もう一つ台が据えられた。三冊の帳簿を開いて並べるための台である。
監査局は両国政府の名のもとに、公開の照合を布告した。造幣所もエスモンド商会も市場の代表も、民衆の前でそれぞれの帳簿を開くよう命じられ、逃げればそれが答えになる。
エスモンド商会の主人モローは、青い顔をしながらも応じるほかなかった。開かなければ、疑いを自ら認めることになるのだから。
鈴なりの人だかりの前で、わたくしは三冊を順に開いた。
「一冊目。王立造幣所の発行台帳。過去二十年で王国が正式に鋳造した銀貨は――二百三十万枚。造幣所の門から生まれた記録のある銀貨は、この数までですわ」
「二冊目。監査局が三月かけて積み上げた、市場の流通推計。いま現に市を巡っている銀貨は――二百三十二万枚。差の二万枚は、生まれた記録を持たぬまま世を歩いている銀貨、ということになりますの」
ここまでは、市も知っている。人々が固唾を呑んだ。問題は、三冊目だ。
「三冊目。エスモンド商会の、仕入帳」
モローの喉が鳴った。ここへ来て初めて、逃げ場のない場所に立たされたと悟ったらしい。買収も脅しも賄賂も、広場のまん中では通じない。数百の目が、彼の帳簿の一行一行を、じっと見つめている。
「この三年、エスモンド商会は大量の銀の地金を仕入れておりますわ。それも名の知れぬ小商人を何人も挟んで、出どころを分かりにくくして。……その量、ちょうど銀貨二万枚を打つに足るだけ」
「ぐ……銀の売買は商人の自由でしょう。地金を仕入れて、何が悪い」
「ええ、仕入れるのは自由。ですがモロー殿、仕入れた銀を、あなたは何に加工して、誰に売りましたの?」わたくしは商会の売上帳を、その隣に開いた。
「銀細工も銀器も装飾品も、売った記録が一つもございませんわ。二万枚ぶんの銀を仕入れておきながら、製品として世に出した記録がない。では、その銀はどこへ消えましたの」
広場が、しんと静まった。答えは誰の目にも明らかで、仕入れた銀は製品にならず、銀貨に化けたのだ。
「造幣所が生まなかった二万枚。エスモンド商会が仕入れて消えた二万枚ぶんの銀。市場に増えた二万枚。……三つの数字が一点で交わりますわ。この二万枚を打ったのは、あなた方ですわね、モロー殿」
とどめは、帳簿の一行だった。エスモンド商会の支払帳には、この三年、名も無い「職人衆」へのまとまった手間賃が記されている。古物商ヴェッキオから流れた第百七号鋳型を受け取り、銀貨を打った偽造団への報酬である。
モローは、へなへなとその場に崩れた。広場じゅうの目がいっせいに注がれる。彼が失ったのは金高ではなく、この広場に集まった何百という民衆の信用だった。市でいちばん重いものを、彼はたった三冊の帳簿の前で失ったのだ。
誰かが「贋金だ」と叫び、また誰かが「おれの銀貨を疑わせやがって」と続く。ざわめきはやがて広場いっぱいの怒りに変わったが、その怒りは、もう恐慌ではなかった。出どころの見えた怒りは、人を狂わせない。
狙いがはっきりした瞬間、市の人々は恐れる側から責める側へと静かに回り、いまや二万枚の贋金より、たった三冊の帳簿のほうを信じていた。恐慌を鎮めるのに剣も号令も要らず、ただ隠されていた数字を三冊、順に開いてやればよかったのだ。
だが、その日の夕、ヴェルメイユ公爵家から一枚の書状がしれっと届いた。『エスモンド商会の不正は商会の独断によるもの。当家は一切、関知せぬ』。双頭の鷲は、あっさりと尻尾を切り落として逃げたのだ。
「……見事な切り口ですこと」わたくしは、その書状を光に透かした。「あまりに鮮やかで、かえって日頃の手際が知れますわね。尻尾を切り慣れた手つき、ですわ」
二年越しの相手だ。ヴェルメイユ公は決して自分の名を証拠の上に残さず、手を汚すのはいつも切り捨てられる側の商会や代理人だった。今日の尻尾切りを、わたくしはしっかり覚えておくことにした。同じ手を何度も使う者は、いつかその手つきそのものが、動かぬ証拠になる。
しかも、切り落とされたのはエスモンドだけではなかった。崩れたモローが、命惜しさに口走ったのだ。「わ、私はそそのかされただけだ! あの鋳型を持ち込んだ、老いぼれの職人が! ベルントとかいう鋳型師が、元凶だ!」と。
消えた名工に、まとめて罪をかぶせる。いなくなった者ほど、都合のいい濡れ衣掛けはない。
「……その勘定は、承認できませんわ」わたくしは、静かに言った。「二万枚の出どころは証明しました。けれど、ベルントという職人が罪人かどうかは、まだ一枚も証拠を見ておりませんもの。数字が合うまで、わたくしは誰のことも罪人とは呼びませんの」
手帳の摘要欄に、記した。
『二万枚、出所立証。エスモンド自壊。ヴェルメイユ、尻尾切りにて逃走――要記録。ベルントの件、未検算。濡れ衣は勘定に入れぬ』




