第四十二話 鋳型の行方
挙式を繰り延べ、わたくしは事案のただ一点に全ての秤を傾けた。
追うのは、二十年前に門を出ていった第百七号鋳型の足取りである。物を追うには、その物が残した帳簿を追う。それが監査官の狩りのやり方だ。銭が動けば、帳簿がそれを覚えている。
まず当たったのは、金属回収業者の受領簿。摩耗した鋳型は、本来ここで溶かされ、受領の判が捺される。だが、第百七号を溶かした記録は、どこにもなかった。
やはり、あの鋳型は溶けてなどいなかったのだ。
金物商も鍛冶屋も、行き止まりだった。ある店は代替わりで古い記録を処分しており、別の組合の帳簿には造幣所の名はあっても鋳型の受け渡しは載っていない。
監査とは、九割が空振りの繰り返しで、投げ出さぬ者だけが残りの一割に辿り着く。屑を屑として扱い、何でも引き取って何にでも流す――悪事を隠すのに、これほど都合のいい商いはない。
網を古物商に絞った三日目、ミレーヌが埃だらけの帳簿を抱えて駆け込んできた。廃業した古道具屋、ヴェッキオの帳簿である。
第百七号が「廃棄」とされたその月に、一行。
『造幣所より、銅鉄くず一括、引き取り。』
中身の内訳がない。屑と称してまとめて引き取れば、その中に溶けていない鋳型が一本紛れていても、誰も気づかない。
ヴェッキオ老人は、存命だった。耳は遠いが、記憶は確かだ。
「ああ、あの屑の一括ね。割のいい仕事でしたよ。丸ごと引き取って、決まった先へ卸すだけ。……ただ、あの一括だけは卸し先を指図されましてな。立派な身なりの使いが来て、『指定の商会へ卸せ。手間賃は弾む。どこから来た品か、二度と口にするな』と。三年は遊んで暮らせる金でした。年寄りは、金を貰うと目が曇る」
悪びれる風もない。この老人は、言われるまま品を運び、律儀に帳簿へ書き留めただけだ。使われたのは、彼の無欲さと、几帳面さ。善良な性質すら道具にされるところに、この陰謀の底知れなさがあった。
糸を引いていたのは、もっと上の誰かだ。
その卸し先を、帳簿の金の流れで辿った。二十年、ヴェッキオが最も多く品を卸し、近年になって取引が急に膨れ上がっている相手。わたくしの指は、繰り返し現れるその名の上で止まった。
「……エスモンド商会」
「局長、その商会の後ろ盾は――」青ざめたミレーヌの声を、わたくしは引き取った。
「ヴェルメイユ公爵家。あの双頭の鷲ですわ」
すべてが繋がった。あの割に合わない、精巧すぎる贋金。目的は、金ではなかったのだ。
銀を惜しまず、手間を惜しまず、見破られぬことだけを追った――狙いは、王国の通貨そのものへの信頼を、静かに毀すこと。
通貨が揺らげば交易が揺らぎ、この縁談を「両国の安寧のため」と嘯いて潰す口実になる。羽根一枚ぶんの軽さは、儲けの証しではなく、悪意の証しだった。欲のない悪事ほど、恐ろしいものはない。
そこにあるのは、ただ誰かを陥れたいという、冷えた意志だけなのだから。
「二十年前に埋めた種を、いま刈り取ろうとなさる。……見事ですわ、公爵。花嫁を事件で足止めし、通貨で国を揺らし、その混乱のただ中で、わたくしたちの結婚式を、両国の信用ごと詰ませる」
けれど、と胸のうちで続ける。二十年前のあなたは、律儀すぎた。署名を一つ欠かせ、屑の内訳を書かせず、古物商に几帳面な帳簿を付けさせた。悪事は隠すほど、その「隠した穴」が記録に跡を残す。監査官が探すのは、いつだって、その空白のほうですわ。
その晩遅く、セドリック様が来られた。アルヴェイド側でも、同じ影が見え始めていたという。
「相手が見えましたね。……二年前は一人の男の私欲でしたが、今度は公爵家が二十年をかけて仕掛けた罠だ。正直、その大きさに、少し怯んでいます」
「怯むのは当然ですわ。相手は王家に次ぐ大貴族。財も人脈も、こちらとは桁が違う。でも、二年前わたくしたちが勝てたのは、相手より大きかったからではございません。正確だったからですわ。向こうがいくら財と権勢を積んでも、二百三十万と二百三十二万は、どうしたって揃わない。その二万の差が、あの双頭の鷲を詰ませますの」
セドリック様は、ふっと肩の力を抜いて笑った。
「あなたと同じ数字を信じていれば、私はどんな大貴族の前でも怯まずにいられる。二年前も、そうでした」
二人の視線が、卓上の二つの帳簿の上で重なる。幸福の明細書と、贋金の帳簿。祝いと、陰謀。その二つを、いま一本の細い糸が繋いでいる。
けれど、その糸の結び目には、まだ片づかぬ勘定が一つ、残っていた。二十年、消息を絶った名工ベルント・ケラー。彼が罪人なのか、被害者なのか。そこが合わぬ限り、公爵に勘定書を突きつけることも、この結婚式を先へ進めることも、できはしない。
まずは、あの美しい鷲を彫った男を、見つけ出さねばならなかった。
手帳の摘要欄に、一行記した。
『差額二万枚、請求先判明。この監査、通貨そのものを舞台にした戦になる。――望むところ、ですわ』




