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婚約破棄された「帳簿の令嬢」は、十年分の記録で王国を詰ませる  作者: 青雨あき


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第四十一話 花嫁である前に

 造幣所からの帰り、わたくしは馬車を国境の市へ向けさせた。数字は帳簿で掴んだ。けれど、その二万枚が生身の暮らしに落とす影は、この目で確かめておかねばならない。


 いつもは活気に満ちた広場が、その日はどこか粘りついたように重かった。パン屋の前で、幼子を抱いた若い母親が、うつむいて立っている。差し出した銀貨を、店主が渋い顔で確かめていた。


「悪いが、この一枚は受け取れねえ。軽い気がするんだ」


「そんな……真面目に働いて頂いたお金です」


「あんたを疑ってるわけじゃねえ。だがこの頃は、どの銀貨も信じられなくてな。悪いな」


 母親は真っ赤な顔でうつむき、その場を離れた。銀貨は確かにあるのに、パンは買えなかった。幼子が、パンの棚を名残惜しそうに振り返る。


 その小さな肩を、わたくしはただ見送るしかなかった。


 馬車を降りて、そのパン代を払ってやることは、たやすい。けれど、それは何の解決にもならない。


 この広場には、同じように疑われる人が、明日も幾百と現れる。わたくしが払うべきは、目の前のパン一つではなく、市そのものが失いかけている信用の全額なのだ。


 真面目に働いた者が、その報酬を疑われ、差し出す手を引っ込められる。二万枚の贋金は、金高そのものよりも、その人と人の間の約束を毀していた。


 広場の一角、ボルトンの両替店の前には、長い列ができていた。人々が、自分の銀貨が本物かどうか確かめてほしくて集まっているのだ。


 ボルトンは汗だくで一枚ずつ検めている。わたくしに気づくと、深く頭を下げた。


「本業の両替はまるで手につきませぬ。……どうか、一日でも早く」。わたくしは「必ず、この霧を晴らしてみせます」と答えるしかなかった。約束の重さが、そのまま肩にのしかかる。


 王都へ戻ると、王宮とアルヴェイド財務省の連名の文書が待っていた。



『両国の通貨信用に関わる重大事案につき、監査局長は、他の一切に優先して本件に当たられたし』



 他の一切。その中には当然、二月後に控えた、わたくし自身の結婚式も含まれていた。



 その晩、セドリック様が同じ文書を手に、監査局へ来られた。


「エルディア嬢。……申し訳ありません。この要請は、私の国も名を連ねています」


「選ぶも何も、とうに決まっておりますわ」


 わたくしは、二月後の日付が記された幸福な明細書を開き、その一番上に一行書き足した。『――本件解決まで、挙式を繰り延べる。』


「花嫁である前に、わたくしは監査局長ですもの。今日、広場で見てまいりましたの。真面目に働いた銀貨を疑われ、パンを買えずに帰る母親を。その不安を放って、わたくし一人が花嫁衣装に袖を通すわけには参りません。……結婚式は、それから。何度でも待ちます」


 二年前、偽の密書に引き裂かれた二月と十二日を思えば、自ら別れを選ぶのは身を切るようだ。けれど、他人に奪われるのと、自分で選ぶのとでは、まるで意味が違う。


 前者は屈辱、後者は――誇りだ。


 セドリック様はしばらく黙って、それから穏やかに微笑んだ。微笑の縁が、僅かに揺れている。


「あなたという人は、二年前、私が恋に落ちたあの夜のままだ。務めのためなら、自分の幸福を平気で後回しにする。……そういうあなたに恋をしたのですから、文句は言えませんね」


 彼は懐から羽根ペンを取り出し、わたくしの一行のすぐ下に書き添えた。『――ただし、繰り延べには利息を付す。』


「……利息、ですって?」


「財務卿補佐として、無利子の繰り延べは認められません。内訳はこうです。『解決までの間、婚約者は、週に一度、監査局長と晩餐を共にする権利を有する』。……あなたはまた、三日三晩、灯りも絞らず算盤を弾くでしょう。せめて週に一度、私があなたの前に温かい食事を置きに参ります。花嫁を事件に取られたぶん、婚約者の権利は、きっちり回収させて頂きますよ」


 わたくしは思わず笑ってしまった。目の奥が、少し熱くなる。この人はいつも、わたくしが失うと思ったものを、そっと別の名前に書き換えて返してくれる。喪失を、猶予に。延期を、招待に。


「……承認いたしますわ。その利息、週に一度、必ず」


「それに」と彼は付け加えた。


「延びた結婚式には、一つ利点もあります。準備の時が増える。事件を片づけて市の信頼を取り戻した、その先で挙げる式は、いま思い描くよりずっと大きな明細書になっている。……救った人々が、こぞって祝いに駆けつける。そんな結婚式に」



 わたくしは、はっとした。



 この延期は、ただ失うだけのものではない。延びた日数のぶんだけ、縁は増え、明細書の行は伸びる。


「敵いませんわね、やっぱり。延期すら糖度に変えてしまうのですもの」


 二人の筆跡が、繰り延べられた日付の下に、寄り添って並んだ。挙式は延びた。けれど、この二人の帳簿は、一日も止まってなどいない。


 手帳の摘要欄に、わたくしは記した。


『日取りの繰り延べを承認。ただし感情は、前倒しで全額計上済み。利息は、生涯かけて喜んで支払う所存』

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