第四十話 署名のない廃棄
王立造幣所は、王都の北、堅牢な石壁に囲まれた静かな建物だった。
鋳造の火はいま落とされているが、金属と炭の匂いがまだ肌に染みている。ここで、王国の銀貨は一枚ずつ生まれてきたのだ。
出迎えた造幣所長のガレルモは、白髪の痩身で、あからさまに落ち着きを欠いていた。もっとも、それだけで疑うのは早計だ。潔白な者ほど、自分の場所から不正が出たと聞けば身を固くする。
「当所の管理は王国一、厳格でありまして。鋳型は一本残らず、帳簿に……」
「その厳格な管理を、拝見しに参りましたの。潔白なら、帳簿があなたを守ってくれますわ」
わたくしは案内されるまま、鋳造の工程を順に見て回った。銀の地金を坩堝で溶かし、棒状に鋳込んで薄く延ばし、円く打ち抜く。その円板を鋳型で挟んで大槌で一打ちすれば、鷲の紋章と年号と縁の刻みが一斉に生まれる。最後に一枚ずつ秤で目方を検め、規定に満たぬものはその場で溶かし直す。
一枚の銀貨が世に出るまでに、これだけの手と目がかかっている。それを思うと、あの精巧な贋金がいっそう不気味に感じられた。犯人は、この幾重もの手と目を、そっくり壁の外へ持ち出したのだ。
鋳型は消耗品だ、と所長は言う。摩耗した鋳型で打てば刻印が甘くなり、贋金と見分けがつかなくなる。だから摩耗した鋳型は、炉で溶かして原形を留めぬまでに破棄する。
「その廃棄には、二名の立会人の署名を要します。所長と、その日の主任鋳造師と。二名の署名なくば、廃棄とは認められません。造幣所創設以来、二百年、破られたことのない鉄の規則で」
「では、その二百年ぶんの廃棄記録を、拝見しましょう」
ミレーヌと二人、廃棄のページを一枚ずつ指で辿った。二名の署名、二名の署名――何百という記録が、寸分の乱れもなく閉じられている。
所長の言葉に嘘はない。完璧な帳簿だ。だからこそ、たった一つの綻びが際立つ。二万枚という現実がある以上、この几帳面な記録のどこかに、必ず一つ、嘘が紛れている。
ミレーヌが日付と番号を読み上げ、わたくしが署名欄を確かめていく。単調な作業だった。所長は後ろで汗を拭きながら見守っている。何百枚と繰るうちに、指の腹が乾いた紙で白くなり、ミレーヌの声が掠れてくる。それでも止めなかった。
合わぬ数字は、必ずどこかにある。答えが先にあるのだから、その原因もまた、この紙の束のどこかに眠っているはずだ。
そして、指が止まった。ちょうど二十年前の、一枚の上で。
『第百七号鋳型。摩耗により、廃棄。』
署名欄には、ただ一名の名しかなかった。当時の所長の署名はある。けれど、その隣、主任鋳造師の欄が、白いまま空いている。
「二名要るはずの署名が、一名ぶん欠けておりますわ。……第百七号は、規則どおりには廃棄されていない」
ガレルモ所長の顔から血の気が引いた。二百年破られなかった規則の、たった一箇所の空白に、二十年間、誰も目を留めなかったのだ。
「当時、第百七号を彫った職人は?」
「……ベルント・ケラー。当所で最も腕の立つ鋳型師でした。若い者は皆、彼の彫る鷲に憧れたものです。羽根の一本一本に風が通っている、と。第百七号は、彼が生涯で最も美しい鷲を彫った名品で。ですが、その年に所を辞めて、以来、消息を聞きませぬ」所長の声が遠くなった。
「不器用な男でしてな。賄賂も追従もできず、ただ鷲を彫ることだけに命を懸けておりました。金には恬淡として、『わしの彫った鷲が、誰かの明日のパンになる。それでじゅうぶんだ』と。……そういう男が贋金を打つなど、正直、像が結びませぬ」
符合が多すぎた。名工が最も美しい鋳型を彫った年、その鋳型が署名なく「廃棄」とされ、同じ年、その名工は姿を消した。溶かした金属の受領記録も、どこにもない。第百七号は溶けてなどおらず、生きたまま門を出ていったのだ。
わたくしは、ガレルモ所長の落ちくぼんだ肩を見た。二百年破られなかった規則が、たった一箇所、破られていた。その事実が、この生真面目な男を打ちのめしている。責めるつもりはなかった。守るべきは、この正直な造幣所そのものなのだ。
「贋金の正体が見えましたわ。あれは粗悪な偽物ではございません。王国が生んだ本物の鋳型で打たれた、本物そっくりの銀貨。銀を惜しんだ羽根一枚ぶんの狂いだけを除いては。……造幣所の外には、日に三度目方を検めるあの工程がない。だから犯人は、いちばん盗みにくい鋳型を盗みおおせて、いちばん揃えやすいはずの目方を、揃えきれなかったのですわ」
けれど、胸に一つ、拭えぬ引っかかりが残った。金に恬淡とした名工が、市の人々が明日のパンを買えなくなるような贋金を、自ら進んで打つだろうか。
「ミレーヌ。ベルント・ケラーのその後を追いますわ。彼が二十年、贋金を打ち続けた罪人なのか。それとも、その腕ゆえに罪を着せられた被害者なのか。……数字が合うまで、わたくし、誰のことも罪人とは呼びませんもの」




