第三十九話 存在しない二万枚
翌朝、ボルトンの持ち込んだ「軽い銀貨」を、局長室の天秤に載せた。右の皿に正規の一枚、左の皿に疑わしい一枚。刻印の一つに至るまで瓜二つ。
それでも針は、ほんの僅か、左へ傾いた。
「銀の含みが、百枚に一枚ぶんほど少ないのですわ」ミレーヌが鑑定士の記録を読み上げる。「熟練の両替商が、手の感覚でようやく気づく程度で」
精巧すぎた。ふつう贋金は、銀を惜しんで安く作り、素早く儲けて逃げる、雑な仕事だ。ところがこの一枚は、正規とほとんど同じだけの銀を注いでいる。
「妙ですわね、ミレーヌ。銀を惜しんでいないということは、犯人は儲けをほとんど捨てている。命がけの危ない橋を渡って、得るものは羽根一枚ぶんの銀だけ。……この一枚からは、欲が匂ってこないの」
「欲得の贋金でないなら、いったい何のために……」ミレーヌが眉を寄せた。
「それが、まだ見えませんの。だから気味が悪い。欲のための悪事は、勘定が分かりやすいのですわ。いくら得をしたか辿れば、犯人の顔まで見えてくる。けれど、儲けを度外視した悪事は始末が悪い。得た金ではなく、奪おうとしたものを見極めねば、真の狙いに近づけませんもの」
答えの出ぬまま、わたくしはセドリック様に文を送った。銀貨は王国だけの問題ではない。
国境の市では、王国銀貨とアルヴェイド銀貨が日々交わって流通している。片方が信を失えば、両国の交易そのものが揺らぐ。
その日のうちに、アルヴェイド財務省から正式な要請が届いた。財務卿補佐セドリック・ヴェイルの名で、両国合同の鑑定調査を求める文書。
末尾に一行――『あなたと再び同じ帳簿を囲めることを、私事ながら心強く思う』。二年前、偽造書簡の夜に始まった縁が、いま二つの国の銀貨を挟んで、また同じ卓に着こうとしていた。
その日の夕刻、セドリック様がアルヴェイド側の資料を抱えて監査局へ来られた。二人で卓を挟む。二年前と同じ構図だ。ただ卓の上にあるのが、偽の密書ではなく贋金の帳簿である、という一点を除いては。
「役割を分けましょう」わたくしは言った。
「わたくしとミレーヌは王国側の台帳を。あなたはアルヴェイド側の両替記録を。もし贋金が国境の市であちらの帳簿にも影を落としているなら、両替の記録に歪みが出るはずですわ」
「承知しました。……二年前は二つの国の帳簿を突き合わせて、一人の男の嘘を暴いた。今度は同じやり方で、銀貨の幽霊を暴く。相手が書簡から銀貨に変わっただけです」
まずは規模を掴む。わたくしは造幣所に、二つの帳簿を求めた。発行台帳と、市場の流通推計。
前者は「王国が何枚の銀貨を生んだか」、後者は「いま何枚が世を巡っているか」を示す、いわば通貨の戸籍と、人口調査だ。
ミレーヌと三日三晩、数を積んだ。市場の帳簿を地域ごとに束ね、両替商の在り高を足す。指が算盤の珠で赤く腫れ、目が数字で霞んだ。誠実な数字は、この地味な足し算の果てにしか現れない。近道をした数字は、必ず後で嘘をつく。
一日目の夜半、北の推計がどうしても前年と合わず、ミレーヌが青くなった。
原因は単純で、ある両替商が年の途中で店を隣町へ移し、在り高が二重に数えられていたのだ。監査とは、こうした地味な引っかかりを一つずつほどいていく、根気の仕事である。
派手な閃きなど、めったに要らない。
二日目の夜半、うとうとしかけたわたくしたちの前に、セドリック様が黙って温かい汁物を置いていった。「数字は逃げません。けれど、人は倒れます」と言い残して。
そして三日目の夜明け前、最後の一束を足し終えて、わたくしは二つの数字を並べた。
発行台帳、二百三十万枚。流通推計、二百三十二万枚。
「発行していない銀貨が――二万枚。世に出回っておりますわ」
局長室が、しんと静まった。造幣所の戸籍に載らぬ銀貨が、二万枚。
国境の市がひと季節商って、なお使いきれぬほどの額だ。それが、生まれた記録も持たぬまま、幽霊のように市を歩いている。徹夜で赤くなった目で、ミレーヌの手から羽根ペンが落ちた。
「ミレーヌ。これほど正規の銀貨に似せられるのは、正規の作り方を知る者だけ。……いいえ、それどころか、正規の道具を使った者だけですわ」
「造幣所の道具……ですか。でも、あそこの道具は一本残らず帳簿に載っているはず。持ち出せば、必ず記録に穴が空きます」
「ええ。だから明日、その穴を探しに行きますの」わたくしは軽い銀貨を指でつまみ上げた。
「この一枚は、贋物のくせに、正規の銀貨よりずっと多くを語ってくれますわ。『わたしは、本物の道具から生まれました』と。造幣所の道具は二百年、壁の内に鍵をかけて守られてきた。それが外へ出たというなら、帳簿のどこかに、必ず別れの日が記されている」
窓の外、白み始めた王都の空に、宵の名残の一番星がまだ消えずに瞬いていた。二百三十万と、二百三十二万。
たった二万の差が、王国の通貨そのものへの、静かな叛逆だった。わたくしは手帳を開き、その夜明けの摘要欄に、一行だけ記した。
『貸借、二万枚ぶん不一致。この差額は、必ずどこかに名前を持っている』




