第三十八話 幸福の明細
結婚式まで、あと二月。監査局長室の机に、この二年で一度も置かれたことのないものが広げられていた。
――結婚式の、費用明細書である。
他人の隠した金の流れを暴くのが、わたくしの生業だ。その同じ手で、いまは自分の祝いの帳簿を一費目ずつ埋めている。
奇妙な心地だけれど、悪くはない。羽根ペンを走らせるたび、胸の奥がほんのりと温かくなる。
「花は聖ロザ孤児院の子どもたちに。引き出物はロミエ村の林檎菓子に。設営は白鳥座の職人衆に。……どれも、一度は不正に泣かされた人たちですわ。その手が今度は、わたくしの祝いを支えてくださいますの」
「局長……」部下のミレーヌが、羽根ペンを握ったまま目を潤ませた。「そういうのは、ずるいです。泣きそうになります」
「あら。涙は費目には載りませんわよ」
そう言いながら、わたくしの胸も少し詰まった。三年前、婚約を破棄され、社交界の笑いものにされ、何も持たぬまま逃げ込むようにこの監査局へ来た。
あの空っぽの手に、いまはこれだけの縁がある。数字ではなく、人の顔で埋まった一冊の帳簿が。
この『公開明細』こそ、先の宣戦布告への答えだった。
ヴェルメイユ家が結婚式の三日前に大舞踏会をぶつけ、『格式は金額』と両国の貴族に問うたなら、こちらは花一輪の値段まで開いてみせて『格式は透明性』と返す。
腹はもう決めてある。あとは、宣言の中身を、こうして一費目ずつ積み上げていくだけだ。
「見事な帳簿です。一行に一つずつ、人の顔が見える」
いつのまにか、セドリック様が明細書を覗き込んでいた。財務卿補佐の礼服に戻った彼は、一行を指でそっと辿る。
「新居の書斎には、帳簿棚を壁一面に。いちばん上の段には、二年前のあの二国の帳簿を飾りましょう。摘要欄には――『この夜、財務卿補佐、恋に落ちる。原因、貸借の一致』と」
「……もう。そういうことを、真顔で仰るから」
わたくしは扇で口元を隠した。この人は、二年前のあの夜から少しも変わらない。数字の羅列の中に、人の誠実さを読み取ってしまう。
そこへ、また勢いよく孔雀の扇が開いた。ダルトン夫人である。先日、宣戦布告を報せに飛び込んできたばかりだというのに、今日はいっそう上機嫌だ。
「エルディアさん! もう社交界じゅうの噂ですわよ、公開明細の結婚式。あなたの読みどおり、見栄で肩身の狭い思いをしてきた家々が、こぞってあなたの側に傾いておりますの」
「ヴェルメイユ家のほうは、いかがですの」
「それが、大変。『格式に相応しい装い』ですって。おかげで中小の家は青くなって、借金までして衣装をあつらえておりますわ。……あの舞踏会は、ただの宴ではございませんのよ。招いた家に借りを作らせ、いずれ票や口利きで返させる。社交界の顔をした両替商のようなもの。四十年見てまいりましたけれど、あんなに笑いながら人に貸しを押しつける家は、そうそうございませんこと」
「だからこそ、透明な明細で応じますの。借りも貸しも、隠れた思惑もない。……ところで夫人、もう一つ、妙な話を耳になさっていて?」
「ええ。中立の何軒かに、あなたの招待状が届いていない、と」
「ええ、存じておりますわ」わたくしは微笑んだ。
「宛先不明で戻った十七通だけ、早馬便の配達記録の筆跡がほかと違っておりました。誰かが途中で握り潰したのですわね。中立の家に届かなければ、その家はあちらの舞踏会だけに出るしかありませんもの」
「まあ。相変わらず細かい手を打つこと、あの双頭の鷲は。……で、どうなさるの」
「十七通は、わたくしが直筆で書き直します。費用は『妨害への感謝料』として一リル。当日の明細書に堂々と載せて差し上げますわ。『心を込めた分だけ割安である』と」
セドリック様が声を立てて笑い、ダルトン夫人も扇の陰で肩を震わせた。妨害というのは、必ず痕跡を残す。痕跡があれば監査でき、監査できれば笑える。
――そんな幸福な帳簿づけの日々は、その日の夕刻、崩れた。
監査局の扉を叩いたのは、国境の市で両替商を営む、ボルトンという男だった。帽子を握りしめ、額の汗を拭きながら、震える声で言う。
「監査局長さま……市の銀貨が、おかしいのです。同じ王国銀貨のはずが、羽根一枚ぶんほど軽いものが混じっておる。見た目は寸分違わぬのに。私ども両替商は、日に何百枚と手で扱いますゆえ、指の腹で気づきました。ですが客には見分けがつきません。すでに市では『王国銀貨は信用ならぬ』との声が上がり、店先で客が支払いを疑われる騒ぎまで……このままでは、商いが立ちゆきませぬ」
差し出された二枚を、灯りの下に並べる。表の鷲、裏の年号、縁の刻み。どこにも違いはない。まるで双子だ。けれど手のひらに載せて揺すってみると、ほんの僅か、片方が軽い気がした。
両替商が身代を賭して守る「一枚は一枚ぶんの値打ちがある」という約束が、この羽根一枚ぶんの狂いに、静かに崩されようとしている。
胸の奥で、あの小さな鐘が鳴った。数字が合っていない、と告げる鐘だ。三年間、一度も外れたことのない鐘だった。
「……羽根一枚ぶん、ですって」
花と菓子で埋まっていくはずだった二月が、これから、まるで違う色に染まっていく。このときのわたくしは、まだ知らなかった。




