第三十六話 宿場の再会
夜の街道を、馬車は東へ走り続けた。
王都から東へ、最初の宿場町・エルデ。ここで、国境から戻るセドリック様の一行と、街道が交わる。
停職の解けたわたくしには、王国のどこへ馬車を走らせる自由もある――と、理屈では自分に言い聞かせながら、膝の上の手は、行儀悪く、何度も握っては開いていた。
二月と十二日ぶり。数字の暗号でしか言葉を交わせなかった、あの人と。
宿場に着いたのは、夜半だった。石畳を照らす角灯の下、一台の旅装の馬車が停まっている。ヴェイル家の、飾り気のない紋章。
――降りてくる、長身の影。癖のない黒髪、灰青色の瞳。旅塵にまみれても、クラヴァットだけは一分の隙もなく結ばれている。
「セドリック様」
馬車を降りるのももどかしく、わたくしは駆け寄った。淑女の作法も、公爵令嬢の矜持も、二月と十二日の距離の前では、羽根より軽い。
彼は、わたくしを見て――そして、一瞬、泣きそうな顔をした。あの、隙のない財務卿補佐が。すぐに、いつもの穏やかな微笑に戻したけれど。灰青色の瞳の縁が、角灯の光で、僅かに濡れて見えた。
「……エルディア嬢。宿場まで、お迎えとは。王都で明朝、と申し上げたはずですが」
「明朝まで、待てませんでしたの。……監査官として、あるまじき短気ですわ」
「奇遇ですね。私も、国境で全手続きを終えた瞬間、馬を替えて夜通し駆けてきました。……財務卿補佐として、あるまじき私情です」
二人して、少し笑った。それから、言葉が、続かなくなった。
二月と十二日。偽の密書に引き裂かれ、数字の暗号でしか繋がれなかった日々。その全部が、今、角灯の下の、この数歩の距離に、圧縮されている。何から話せばいいのか、帳簿なら一目で貸借が合うのに、この胸の勘定だけは、桁が大きすぎて、うまく締められない。
沈黙を破ったのは、セドリック様だった。彼は、旅装の懐から、一枚の紙を取り出した。
「エルディア嬢。……国境で手続きを待つ間、これを、書いていました。渡す機会が、来ないかもしれないと思いながら」
差し出されたのは、羊皮紙。そこには、見慣れた、けれど見たこともない書式が、彼の几帳面な字で、記されていた。
『婚約再開に関する、申し入れ書』
「……申し入れ書?」
「ええ。二年前、あなたは私の求婚を、承認書の様式で受けてくださった。ならば、私からのやり直しも、様式に則るべきだと思いまして。……項目を、ご覧ください」
角灯に透かして、わたくしは読んだ。
『一、本申し入れは、政略・家格・国益の一切を、算定根拠から除外する。二、申し入れの唯一の根拠は、申入人セドリック・ヴェイルの、私的かつ不可逆的な感情である。三、前回の婚約が偽造書簡により凍結された事実に鑑み、本申し入れは、いかなる第三者の妨害によっても、二度と凍結されないものとする。四、回答は――』
四項目めで、彼のペンは、様式を、逸脱していた。
『四、回答は、書面ではなく、口頭で、いただきたい。あなたの、生の声で。』
「……ずるいですわ、セドリック様」
声が、震えた。二年前、わたくしは承認書の様式に逃げ込んで、生の言葉を避けた。
この人は、その逃げ道を、丁寧に、優しく、塞ぎに来た。
項目を積み上げて、最後の一項で、わたくしを、逃がさない場所へ、連れてきた。
「口頭で、と申し上げました。……お聞かせ願えますか。エルディア嬢」
角灯の火が、ぱちりと爆ぜた。わたくしは、羊皮紙を胸に抱いて、顔を上げた。
淑女の作法も、監査官の冷静も、様式も、全部、脇に置いて。
「……はい。喜んで。――もう二度と、あなたを、わたくしの帳簿から、消させはいたしませんわ」
次の瞬間、旅塵の匂いの中に、抱きすくめられていた。二月と十二日分の距離が、ゼロになる音を、わたくしは、確かに聞いた。
――手帳の、その夜のページ。わたくしは後で、たった一行だけ、書いた。
『本日、未収金、全額回収。ただし利息は、生涯かけて、返しても返しきれず』




