第三十三話 泳がせた魚の、釣り上げ方
餌は、丁寧に仕込んだ。
監査局の未公開情報の棚に、ミレーヌが一件の書類を新たに綴じたのだ。
表題『偽造書簡・科学検分の中間報告(取扱厳秘)』。
中身は、こう読める。『五通のインクの成分分析が完了。使用インクはアルヴェイド財務省の官給インクと特定。三日後の審問にて公表予定』
――半分は本当で、半分は虚構。インクの分析は実際に進んでいるが、結果はまだ出ておらず、公表日も決まっていない。
この餌の閲覧権者は、例の五名だけ。そして餌の周りには、ブノワ老仕込みの罠を張った。書類の綴じ紐に、封緘用の細い蝋を一筋。開けば、必ず折れる。
「……局長、蝋、折れてました。閲覧簿への記帳は、なし。無断閲覧です。昨日の夕方、書庫に長く残っていたのは――ラングさん、一人です」
「魚が、餌に触れたわね。次は、呑み込むかどうか」
呑み込んだかどうかは、三日と待たずに、社交界が教えてくれた。ダルトン夫人の孔雀の扇が、風より速く飛び込んできたのである。
「出ましたわよ、エルディアさん! 昨夜の二つの夜会で、示し合わせたように同じ噂が! 『監査局はインクの鑑定結果を捏造しようとしている』『そもそも官給インクなど、市中に流出品がいくらでもある』――ですって! まだ公表もされていない鑑定に、先回りの言い訳が撒かれておりますの!」
「……ご馳走さま。完食ね」
まだ世に出ていない偽情報への反論は、偽情報を盗み読んだ者にしか、できない。
噂の経路をダルトン夫人の網で遡れば、出所は二つの夜会に共通する招待客――ヴェルメイユ家の家宰、ギュスタン氏の席次に行き着いた。
ラング氏の確保は、静かに行われた。逃亡も抵抗もなく、彼は監査局の応接室で、疲れた顔で紅茶を一口飲み――淹れたのは彼自身ではなく、ミレーヌだ。
彼女は意地のように、彼がいつも皆に淹れていたのと同じ蒸らし方で淹れた――それから、洗いざらい話した。
八月前、着任の直前に、アルヴェイド側の「さる筋」から接触があったこと。
故郷の病身の弟の療養費、月々の千リルと引き換えに、指定された情報を閲覧し、写しを渡してきたこと。療養院の払いは月に千二百リル、連絡官の俸給では、二百リルずつ届かなかったこと。
指示書は毎回、暗号じみた短文で、署名はないが――几帳面を通り越して、定規で引いたような字だったこと。
「……言い訳は、しません。私は情報を売った。あなたの婚約が、私の渡した写しで凍らされたことも、承知しています。ただ、ひとつだけ。弟は、何も知りません。あれの薬代だけは、汚れた金と知らずに、済ませてやりたかった」
「ラングさん。あなたの罪は、罪ですわ。監査官として、一リルも値引きいたしません」
わたくしは、静かに言った。
「けれど――弟さんの薬代そのものを、恥じる必要はなくてよ。恥じるべきは、人の弱い場所を正確に量って、月々二百リルの隙間に釣り針を落とした側。あなたは証言で罪を精算なさい。弟さんの療養の道筋は、こちらで検討します。……人質を取られたままの証人の言葉には、価値がありませんもの。これは温情ではなく、証言の品質管理ですわ」
ラング氏は、紅茶の湯気の向こうで、長いこと、頭を下げていた。
「……その指示書、一枚でも、残しています?」
「……焼けと言われていました。ですが、最後の一枚だけ。弟の療養費の、次の振込先が書いてあったので、捨てられず」
差し出された紙片を、わたくしは灯りに透かした。指示の文面、振込先、そして、あの字。
同じ頃、国境の向こうでも、セドリック様が文書課長を詰め終えていた。月次報告の数字が告げる。『課長・自白。紙五〇枚、家宰Gへ引き渡し。証言調書・確保』。
両岸から手繰った糸が、一人の男の上で、綺麗に結ばれた。ヴェルメイユ家家宰、ギュスタン。
……さて。尻尾までは、届いた。あとはこの尻尾が、胴体ごと出てくるか、切って逃げるか。
「ミレーヌ。審問所に上申を。最終審問の期日指定と――アルヴェイド側査問会との、合同開催の要請を」
「合同って……国境を挟んで、ですか?」
「ええ。仕掛けが両国を跨いで組まれた以上、立証も両国で、同じ日、同じ刻にやらなければ、片方ずつでは揉み消されるわ。……それにね。離れて戦うと決めた日から、この形しか、考えていませんでしたのよ」




