第三十話 借方と、貸方
停職三日目、監査局から届いた事務連絡の束に、それは紛れていた。
アルヴェイド財務省発、合同監査局宛の、何の変哲もない月次報告書。
両国の検閲印が捺され、数字の羅列が並ぶだけの公文書。ただし作成者の欄に、セドリック・ヴェイルの署名。……検閲付きでも、公務の書類だけは国境を越えられる。
ミレーヌが停職中のわたくしの家まで写しを運んでくれた。「局長、これ、ただの月次報告ですけど……なんだか、数字の並びが、変で」
変、なものですか。わたくしは一目で読み取っていた。
報告書の末尾、参考数値の欄。『取引番号一七〇一、金額五〇〇』『取引番号〇二一四、金額二〇〇二』――一七〇一は、彼が初めて監査室の扉を叩いた日。〇二一四は、承認書で婚約に答えた日。そして金額の並びは、複式簿記の借方と貸方。借方(こちらの受け取ったもの)の欄に、疑うな。貸方(こちらの差し出すもの)の欄に、必ず反証を。
――数字しか通れない検閲の網を、数字で潜って、彼は約束を寄越したのだ。照合は、二人で。
「……ミレーヌ。返信の月次報告に、こちらの参考数値を載せます。取引番号は追って指示するわ。それから、仕事を三つ。停職中のわたくしは動けないから、あなたが監査局の正式権限で動いてちょうだい」
「はいっ。なんでも言ってください」
「一つ。審問所に要求した五通の原本、届き次第、紙の検分を。漉き工房の透かし、インクの成分、封蝋の型。特に紙よ。あれだけの上質紙、出所は限られる。二つ。監査局の閲覧記録の洗い出し。密書に使われた未公開情報を、この半年に閲覧した者の全記録。内部の漏れ口を塞がない限り、偽造は何度でも作られるわ。三つ――ブノワ公証人のところへ行って、封緘済みの手帳の保全を。役場ごと狙われる可能性がありますから、写しの寄託先を、王妃陛下の御璽の下に」
「王妃陛下の……! 引き受けてくださるでしょうか」
「くださるわ。恩養費の一件で、陛下は仰ったもの。『あなたに監査を許してよかった』と。……今度は、わたくしが監査される番。順番が回ってきただけよ」
ミレーヌが駆け出していくのと入れ替わりに、玄関の呼び鈴が鳴った。扉の外に立っていたのは、非番のはずの巨躯――ダリオである。私服の上からでも分かる姿勢の良さで、彼は直立した。
「じ、自分は本日より非番の日をすべて、当家の門前の……その、散歩に充てることにしたのであります。停職中の局長の護衛は職務外でありますので、これはあくまで、私的な、散歩であります」
「……毎日、うちの門の前を?」
「はっ。往復であります。健康のためであります」
律儀な散歩人は、それから審問が終わる日まで、雨の日も、本当に一日も欠かさなかった。
援軍は、他からも来た。停職の報が広まると、審問所に人物照会状が続々と届き始めたのだ。
家政長官オルガ夫人「三十年の勘で申し上げる。あの方は帳簿を曲げない」。軍務府の新局長。鑑定院の新管理規程に署名した院長。聖ロザ孤児院のマグダ院長は、子どもたちの拇印の連判まで添えてきた。
そしてダルトン夫人は社交界の防衛線で、四十年鍛えた口を全力回転させているという。
「疑う方には、こう申し上げますの。『あの方が売国するなら、まず帳簿に載せてからですわよ』って。皆さま、妙に納得なさるの」
――誉め言葉かどうか、判断に迷うところである。
事件簿の一件一件で積んだ小さな貸方が、いま、思わぬ形で戻ってくる。信用は、こういうときに貯まり、こういうときに、返ってくるものらしい。
五日後、原本が審問所に提出され、検分の権利がミレーヌに認められた。彼女は検分室に半日籠もり、夕刻、頬を紅潮させて飛び出してきた。
「局長! 紙です! 五通の紙、全部、透かしが同じ工房――アルヴェイドの官用紙です! それも財務省が調達している、部外に出回らないはずの特級紙!」
「……あちらの、内部」
偽造の筆はこちらの筆跡を写し、偽造の紙はあちらの官庫から出た。つまりこの仕掛けは、国境を跨いで組まれている。
ヴェルメイユ網が、アルヴェイド財務省の内側に、紙を流した手を持っているということだ。
――そしてそれは、セドリック様の職場の、すぐ隣が敵地だという意味でもある。
その夜、わたくしは月次報告の返信案に、参考数値を書き込んだ。『取引番号〇九〇五(彼の誕生日)、金額一(至急)』『科目・用紙、金額五(五通とも)』『科目・調達簿、金額〇(そちらで洗って)』。……我ながら、世界一色気のない恋文だこと。
でも、いいのだ。恋文の様式は、手持ちにない。わたくしたちにあるのは、帳簿の様式と、十三年と二年分の信用だけ。
――それで、落とせない城など、ありはしない。




