第二十八話 音楽会の、一小節
秋の入り口、アルヴェイド大使館主催の音楽会が開かれた。
両国親善の演目、招待客は選りすぐり――そして招待状の差配をしたのは、ヴェルメイユ家である。敵の庭に呼ばれた、ということだ。
出発前、ダルトン夫人の戦況報告を受けた。孔雀の扇が、珍しく忙しない。
「縁組の網、王国側の三家のうち、南のロンサール伯爵家が陥落しましたわ。ご子息とヴェルメイユ縁者の令嬢の婚約が内定。残る二家は持ちこたえていますけれど、『グランフェルト嬢の側についても、実利がない』という囁きが効き始めています。社交界というのは、旗色で動く生き物ですものねえ。……それと、もうひとつ。近頃の夜会で、妙な言い回しが流行っておりますの。『秋のうちに、大きな帳尻合わせがあるらしい』――出所の辿れない、嫌な流行り言葉ですわ」
「帳尻合わせ。……ご丁寧に、予告まで撒いてくださるのね」
「行かない選択は?」
「ありませんわね。欠席は『逃げた』の一手に化けますもの。それに――敵の庭でしか、見えないものもございますし」
当夜。大使館の音楽堂で、わたくしはセドリック様と並んで席についた。周囲の視線は、好奇と、値踏みと、幾らかの同情。
ヴェルメイユ網の縁組工作はこの二月で本格化し、わたくしたちの婚約を「そろそろ潮時」と見る向きが、社交界に増えている。
演目の三曲目が終わった休憩、それは起きた。予定にない出し物として、主催者が「余興」を告げたのだ。
「――本日は特別に、ヴェルメイユ公爵家のカサンドラ様より、クラヴィーアの小品を一曲」
場内が、上品にどよめく。完璧公女の演奏など、めったに聴けるものではない。壇上に上がったカサンドラは、動かない微笑のまま一礼し、鍵盤の前に座った。
……これは、あちらの政治だ。「完璧な令嬢」を見せつけ、セドリック様の隣に座るべきは誰かを、音で問う趣向。分かっている。分かっているのに。
最初の一音から、わたくしは、政治を忘れた。
上手い、というのとは違う。完璧、というのとも違う。礼法の教本を千ページ重ねたような、非の打ちどころのない演奏――のはず、だった。
中盤の、ほんの一小節までは。
楽譜が、静かな緩徐部に入った瞬間。彼女の指が、記譜より、ほんの僅かに、歌った。
装飾音がひとつ、譜面にない場所で羽ばたいて、すぐに、何事もなかったように教本の中へ戻った。
会場の誰も、気づかなかっただろう。けれどわたくしは、二年間、帳簿の中の「一リルの乱れ」を探して生きてきた女だ。
あの一小節だけ、あの方は、自分の言葉で話した。
演奏が終わり、完璧な拍手が満ち、彼女は完璧な礼をして壇を降りた。すれ違いざま、わたくしは、扇の陰で告げた。
「――中盤の装飾音。あそこだけ、素敵でしたわ」
動かない微笑が、生まれて初めて見るものを見る目で、わたくしを見た。二秒。それから何も言わず、彼女は人波に消えた。手帳の摘要欄、三行目。『公女、装飾音一つ。空白、実在を確認』。
入れ替わるように、別の影が、わたくしの前に立った。
白髪を一分の隙もなく後ろへ流した、鷲鼻の偉丈夫。六十がらみ、上背はセドリック様よりなお高く、身にまとう空気だけで人垣が割れる。胸の紋章は、ヴェルメイユ家の双頭の鷲。
「――グランフェルト嬢とお見受けする。娘の演奏は、いかがでしたかな」
ヴェルメイユ公爵。初対面の威圧は、成程、大したものだった。声は低く穏やかで、目だけが、帳簿を検分するわたくしの目と、同じ温度をしている。
「見事なご演奏でしたわ、公爵閣下。教本のすべてのページを、完璧に。……ただ、一等心に残りましたのは、教本に載っていない一小節でした」
鷲の目が、僅かに、細くなった。
「ほう。……娘に、教本の外など、ありませんよ。あれには、生まれた日から、完璧のみを与えて参りましたのでな。――時に、嬢。近頃の社交界は騒がしい。お体には、くれぐれもお気をつけなされ。秋というのは、帳簿の季節。思わぬ帳尻が、合いに来るものです」
「ご忠告痛み入りますわ。……帳尻でしたら、ご心配なく。わたくしの帳簿は、いつ誰が検めても、貸借が合うようにできておりますの。――閣下の帳簿は、いかがです?」
二秒の沈黙。公爵は答えず、完璧な会釈だけを残して、去った。宣戦の予告と、応戦の予告。互いの帳簿に、そう記帳された夜だった。
――その夜の帰り際、セドリック様に、本国からの急使が追いついた。財務省の公務で、アルヴェイドへの一時帰国命令。期間は一月。
「……このタイミングで、ですか」
「ええ。露骨なほどに、このタイミングで。人事に、あちらの網の指が入っています。……エルディア嬢。約束を、覚えていますね」
「照合は、二人で。片方だけで結論を出さない。……ええ、指切りの分まで、覚えておりますわ」
「必ず、一月で戻ります。それと――何かが起きるなら、私たちが離れている、この一月だ。手帳の封緘を、欠かさずに」
国境へ発つ馬車を見送りながら、わたくしは、嫌な予感の輪郭を、正確に測っていた。
筆跡見本の買い集めは、二月前に、ぴたりと止んでいる。集め終わった、ということだ。




