第二十六話 王妃さまの、秘密の出費・後編
閉ざされた両替商と、跳ね上がった六百リル。手がかりは、畳まれた店の隣で四十年続くという靴屋の親父さんが、くれた。
「ベルタんとこの倅かい。急な話でなあ。『おふくろが倒れた』って、店を畳んで、荷馬車で東へ行ったよ。故郷の村へ帰るって。……ああ、村の名前かい。確か、ロミエって言ってたな。林檎の村だ」
ロミエ村。王都から馬車で二日、東の丘陵地帯。わたくしはミレーヌを伴い、監査局の紋章を外した平の馬車で、林檎の花の季節の街道を東へ向かった。
村はずれの小さな家で、その人は、陽だまりの寝台にいた。
八十を超えているだろう。白髪を丁寧に編んだ、小柄なお婆さん。皺だらけの手は、それでも節々に、長く働いた人の形を残している。
傍らには、店を畳んだ甥御さん――四十絡みの、実直そうな元両替商が、匙で林檎のすり下ろしを運んでいた。
「王都から、お客さんとは珍しい。……ばあちゃん、ほら、お客さんだよ」
「はあて……どちらさまじゃったかね」
マルグリットさん。それが、二十年間の送金の受取人の名だった。甥御さんは、観念したように、すべてを話してくれた。
「……ばあちゃんは、王妃様の乳母だったんです。実の母君を早くに亡くされた王妃様を、三つの歳から嫁入りまで、そりゃあもう、実の娘みたいに育てた。けど、興入れが決まったとき、先の王太后様が仰ったそうです。『王家に入る者に、平民の母はいらぬ。縁は、切りなさい』と。……王妃様は、たったひとつだけ、我を通されました。『縁は切ります。けれど、あの人が生きている限り、わたくしのお金で支えます。名は伏せて、一生』。それが、月々の二百リルです。俺は両替商のなりわいで、二十年、その橋役をしてきました。先月、ばあちゃんが倒れて……薬代と、付き添いの人手で、月に四百リル、余計にかかるようになった。王妃様は、報せを聞いてすぐ、増額してくださいました。それだけの、話なんです。どうか、王妃様のお咎めにだけは」
「お咎めなど、あるものですか」
わたくしは、寝台の傍らに膝をついた。マルグリットさんの霞んだ目が、わたくしを、王都の方角を、探すように彷徨う。
「……姫さまは、お達者かねえ。あの子は、寝つきの悪い子でねえ。歌ってやらんと、眠らんのよ。ええと、あの歌は、どう始まるんじゃったか……林檎の、木の下で……」
節は、途中で霞に呑まれて消えた。それでも皺の手は、膝の上で、ゆっくりと、子守の拍子を刻み続けていた。ミレーヌが、はなをすすった。
――帰京して、わたくしは王妃陛下にすべてを報告し、そして、ひとつの提案をした。
「陛下。この支出、隠すのは、もう終わりにいたしましょう。醜聞の芽は、隠すから育ちます。……費目を新設なさいませ。名は『恩養費』。王家を育てた者を、王家が生涯支えるためのお金。堂々と帳簿に載せ、堂々と、社交界で語ってくださいまし。『わたくしを育てたのは平民の乳母です。その人を支えることを恥とする王家で、あってはなりません』と」
王妃陛下は、長いこと黙っておられた。氷の面の下で、二十年分の何かが、ゆっくり解けていく音がした。
「……エルディア。あなたに監査を許して、よかった」
半月後、王妃陛下は「東の離宮の療養視察」の名目で、お忍びの馬車を東へ走らせた。
ロミエ村の小さな家で何があったか、わたくしは同行していないから、記録にはない。ただ、帰りの馬車の中で陛下がずっと、掠れた声で古い子守唄を口ずさんでおられたと、御者だけが知っている。
社交界に撒かれかけた「王妃の不明金」の噂は、恩養費の公表とともに、美談へと裏返った。ヴェルメイユ網の最初の矢は、こうして、的に届く前に花に変わった。
――ただし、あちらの矢筒には、まだ何本も、矢が残っている。




