第二十五話 王妃さまの、秘密の出費・前編
嵐の前の監査局に、しかし仕事は待ってくれない。よりにもよって、王宮の最奥から来た。
発端は、定例の王家内々費監査である。第十一話の封印帳簿の一件以来、王家の私費は年に一度、監査局が目録を検めることになっている。
国王陛下の費目は今年も平和なものだった(釣り道具に少々の浪費癖がおありだが、時効の先例に倣い、目録のみ)。問題は――王妃陛下の私費に、あった。
「局長、この項目……二十年間、続いてます」
ミレーヌが指した行は、こうだった。摘要『慈善』。毎月十五日、二百リル。宛先は市井の両替商『ベルタ商店』経由、受取人の名の記載、なし。二十年間、二百四十回、一度の遅れも、一リルの増減もなく。
「二百リル。庶民の家賃の五分の一、上等な靴が一足。王妃の私費としては、慎ましいくらいの額ね。けれど――受取人不明の定期送金が二十年。監査の教本なら、赤い付箋を三枚貼る項目ですわ」
わたくしは手続きに則り、王妃陛下に照会を上げた。返ってきたのは、教育係でもある陛下からの、初めての拒絶だった。
『その項目には、触れてはなりません。監査局長の権限をもってしても、です』
――さて、困った。
困っている間にも、嫌な報せが重なった。
ダルトン夫人が、社交界の水面に落ちた小石を拾ってきたのだ。「王妃様の私費に、説明のつかないお金があるらしい」という囁きが、二つの夜会で、別々の口から流れたという。
出所は辿れない。辿れないように流すのが、あちらの網の流儀だ。
「……ヴェルメイユ網ね。わたくしを狙う前に、外堀――わたくしの後ろ盾から、崩しにきた。王妃陛下の醜聞に育てて、『監査局は身内の疑惑に手心を加えた』という筋書きまで、おまけに付けて」
放ってはおけない。守るためにこそ、数えなければ。わたくしは翌日、王妃陛下の私室の扉を、正面から叩いた。
銀灰の髪を結い上げた王妃陛下は、氷の異名の通りの無表情で、わたくしを迎えた。けれど二年、この方に教わってきた。この方の氷は、冷たさではなく、堪えの形だ。
「触れるなと、申しました」
「はい。ですから本日は、監査官としてではなく、陛下の教え子として申し上げに参りました。――社交界に、この支出の噂が撒かれ始めております。撒いている者の狙いは、噂を醜聞に育てること。醜聞は、秘密の周りでしか育ちません。……陛下。秘密は、暴かれる前に、味方の手で数えられるべきですわ。数え終わった秘密は、ただの事実になって、醜聞の餌には二度とならない。わたくしに、数えさせてくださいまし」
長い、長い沈黙。やがて王妃陛下は窓の外に目をやり、氷の声のまま、けれど氷の下の水のような声で、言った。
「……古い、約束なのです。わたくしが王家に嫁ぐ日に交わした、たったひとつの、わたくし自身の約束。相手の名は――言えません。ですが、悪しきことでは、決して」
「承知いたしました。では名を伺わぬまま、お金の道筋だけを検めます。数字は、名を明かさずとも、潔白だけを証明できますので」
私室を辞し、わたくしとミレーヌはその足で、送金経路の両替商『ベルタ商店』へ向かった。下町の角の、小さな両替商。
――そして、店の前で、足が止まった。
扉に、板が打ち付けてあった。『閉店御礼。長らくのご愛顧――』。近所の話では、先月、店主が急に店を畳み、行方は誰も知らないという。
「局長……それと、これ。今月の王妃様の私費、写しを取り直してきたんですけど」
ミレーヌの検算帳が、震えていた。
「今月十五日の支出――二百リルじゃ、ありません。六百リルに、跳ねてます。二十年間、時計みたいに正確だった数字が、初めて」
「……数字が乱れるのは、人の身に何かが起きたときですわ。経路は消え、金額は跳ねた。二十年の約束の相手に、今――何かが、起きている」




