第二十四話 嵐の前の照合
夏の終わり、戦況は静かに、しかし確実に悪化した。
最初の報せは、アルヴェイドから届いたセドリック様宛の書簡だった。差出人は彼の叔父上。
ヴェイル家の親族が営む織物商会が、ヴェルメイユ系の取引先三軒から、立て続けに契約を打ち切られたという。表向きの理由は「品質の見直し」。時期は、親善夜会の、ちょうど二十日後。
「露骨ですね。……親族への兵糧攻めだ。私に『家のために身を固めよ』と言わせるための」
「ご親族は、なんと?」
「叔父は『商いの二軒や三軒で退くくらいなら、最初からお前の婚約に賛成しておらん』と。……うちの一族は、頑固だけが取り柄なので」
二つ目の報せは、ダルトン夫人の孔雀の扇が運んできた。先週のアルヴェイド大使館の夜会。
ヴェルメイユ公爵――白髪を後ろに流した、鷲鼻の偉丈夫だそうだ――が、取り巻きの貴顕を前に、葡萄酒の杯を掲げて言ったという。
「『帳簿の令嬢、結構。数字のお強いこと、結構。ですがな、諸君。社交界には社交界の帳簿がある。信用という名の、な。――あの小娘の信用を、社交界の流儀で、精算して差し上げましょう』……ですって。忌々しいこと、精算はあなたの得意分野ですのにねえ、って隣の奥様に言ってやりましたわ」
「夫人、それは言い過ぎ……いえ、よくってよ」
そして三つ目の報せが、いちばん、冷たかった。ミレーヌが市場の網から拾い上げてきたのだ。
「局長。王都の代筆屋と文具商の間で、妙な買い付けが動いてます。『合同監査局長の署名入り公文書の写し』――つまり局長の筆跡の見本を、一枚二十リルの高値で集めてる者がいるって。もう十数枚は集まったはずだと」
筆跡の、見本。その使い道など、ひとつしかない。
「……偽造ですわね。わたくしの筆跡で、何かを書くつもり」
会議室が凍る中、わたくしは努めて、いつもの声を出した。恐れは、後で一人のときに数えればいい。今は、手を打つときだ。
「防御を二段、張ります。第一に、本日以降、監査局の全公文書に日付印と割印を義務化。わたくしの署名は、必ず印と組でしか効力を持たない形式に改めます。第二に――こちらが本命よ。偽造は、防ぎきれない前提で動きます。偽物が出たとき、本物のわたくしが『その日、その時、どこで何をしていたか』を、第三者が証明できる仕組みを、今から仕込んでおくの」
「そんな仕組み、あるんですか?」
「ありますわ。わたくしが十三年続けてきた、日次の手帳。あれを今月から、月末ごとに公証人役場へ持ち込み、封緘証明を受けます。封をした日付以降、中身に手を加えられないことを、公証人が保証する。……未来のいつか、偽の書簡が『過去のわたくし』を騙ったとき、封の中の本物の過去が、反証として立ち上がりますの」善は急げ、である。
その週のうちに、わたくしは公証人役場の扉をくぐった。応対したのは、公証人歴四十年というブノワ老。豊かな白眉の下の目は半分眠っているようで、しかし書類に落ちた瞬間だけ、外科医のそれになる。
「ほう……日次の私的手帳の、月次封緘。四十年やっとりますが、初めての依頼ですな。遺言書でも、契約書でもなく、ご自分の毎日を封印なさると」
「はい。中身は、朝の茶の銘柄から会議の議題まで、退屈な記録ばかりですけれど」
「結構。公証人の商売はね、お嬢さん。退屈な紙ほど、ありがたいのです。退屈な紙は、嘘をつく動機がない」
封蝋が、手帳の綴じ紐の上に、とろりと落ちて固まる。ブノワ老は封緘台帳に日付と手帳の枚数を記し、割印を捺した。
「来月末、また同じ時刻に。……時間に正確な依頼人は、公証人の宝ですぞ」――こうして、月にひとつ、動かせない過去が積まれていくことになった。
誰にも読ませないための封が、いつか、誰かに読ませるための封になる日まで。
会議のあと、人払いした局長室で、セドリック様が静かに言った。
「エルディア嬢。……この先、彼らは必ず、私たちを引き離しに来ます。物理的に、制度的に。会えない日々が来るかもしれない」
「でしょうね。逢引の記録は、敵にとって格好の的ですもの」
「ですから、約束をひとつ。……何が起きても、どれだけ離れても、疑義の照合だけは、二人でやる。片方だけで結論を出さない。あなたを疑う紙が百枚来ても、私は百一枚目に、あなたの帳簿を置く」
「……承認いたしますわ。同条件にて、相互に」
差し出された小指に、小指を絡める。指切りという庶民の作法を、彼はどこで覚えたのだか。




