第二十二話 白鳥座の赤字・前編
社交界の水面下が軋み始めても、監査局の窓口は平常運転である。次の依頼は、出資貴族三家の連名だった。
「王都の劇場『白鳥座』の監査を願いたい。あそこに出資して十年、配当はただの一度もなし。帳簿は万年赤字。なのに座長は新演目を打ち続ける。……使い込みとしか思えん」
白鳥座。三百年続く王都最古の劇場だ。座席六百。木戸銭は平土間三リル――パン一つと同じ、庶民の気晴らしの値段。二階席八リル、貴族用の桟敷は四十リル。
訪ねた楽屋口で、座長のジョルジュ翁が迎えてくれた。七十過ぎの、小柄な老人である。継ぎの当たった稽古着、白い髪はぼさぼさ、けれど背筋と目だけは舞台役者のそれで、まっすぐだった。
「監査官様かい。ああ、帳簿でもなんでも見ておくれ。わしは一リルも盗っちゃおらん。……だが、赤字は本当だ。それも、わしにも理由の分からん赤字でな」
「分からない赤字、と仰いますと」
「客の入りの割に、金が残らんのだ。わしゃ数字は苦手でな、金勘定は支配人のラモンに任せきりだが……あいつも『招待客が多いから』と言う。まあ、招待はわしが増やしたから、文句は言えんのだが」
帳簿を借り受け、三年分をミレーヌと繰る。
支出は、驚くほど質素だった。役者の給金は相場の下、座長の取り分は職人の月給ほど、衣装は繕って十年物。
使い込みの匂いは、支出側には、ない。
問題は収入だ。毎公演の売上記録は、六百席のうち「売上四百席弱、招待百八十席」前後で、判で捺したように並んでいる。
「局長、変です。招待が毎回きっかり三割前後って、多すぎませんか? それに……」ミレーヌが検算帳に線を引く。
「天気と売上が、連動してません。記録を見ると、大雨の日も、祭りで街が空の日も、初日も千秋楽も、売上がほぼ同じ。お客さんの入りって、そんなに毎回同じものですか?」
「良い違和感ね。答え合わせに、観に参りましょう」
その晩、わたくしとミレーヌは、お忍びの平織りの外套で、平土間の三リル席に座った。
演目は下町の人情喜劇。三リル席というものに、わたくしは生まれて初めて座ったのだけれど――これが、良いのだ。
硬い長椅子に肩を寄せ合い、飴売りの声が通路を行き、開幕前から客席のあちこちで笑い声が弾けている。
隣のおかみさんが「お嬢ちゃんたち初めてかい、今日のは泣くよ」と、聞いてもいないのに教えてくれた。
そして幕が上がる頃には、答えの半分が、目の前にあった。
――八割方、埋まっている。
平土間は立ち見が出るほどで、二階も桟敷も、灯りに浮かぶ頭の数は優に五百。帳簿の言う「売上四百席弱」とは、どう数えても合わない。
わたくしは幕間ごとに区画割りで頭数を数え、ミレーヌに記録させた……のだけれど、三幕目あたりから記録の字が乱れ始めた。
見れば、助手殿は舞台の親子の再会場面に、はなをすすって泣いている。
「ミ、ミレーヌ。数を」
「か、数えてます、数えてますけど、局長ぉ、だってあの父ちゃんが二十年ぶりに……うぅ……五百十二人です……! ぐすっ」
「……泣きながら正確なの、あなたのそういうところ、好きよ」
隣のおかみさんの言う通り、泣ける演目だった。そして泣きながら、わたくしは確信していた。これだけの客を集める劇場が、万年赤字であるはずがない。
幕間に、支配人のラモンが桟敷筋への挨拶に現れた。恰幅の良い五十年配、揉み手が癖の、如才ない男だ。
「これはこれは監査官様、ようこそ白鳥座へ。ええ、ええ、今夜は特別に入りが良い日でして。普段はもう、閑古鳥で。座長が招待、招待と大盤振る舞いなさるものですから、手前どもは帳簿を締めるたび、胃が痛みますよ」
「まあ、大変ですのね。ではその招待百八十席の、招待名簿を拝見できます? どなたを招いたか、記録がございますでしょう」
揉み手が、一拍、止まった。
「……名簿は、その、慣例で、取っておりませんで。木戸で口頭の、ざっくばらんな商いでして、ははは」
「あら。百八十人を、毎回、口頭で」
帰り道、ミレーヌが夜空に向かって唸った。
「局長。座長さんの招待の記録、楽屋で見せてもらったやつ――私的な覚え書きには『今日の招待、救貧院の子ら二十二名』って書いてありました。二十二と、百八十。……差の百五十八席分、どこに消えたんでしょうね」
「消えてなどいませんわ。今夜も座っていたでしょう、その百五十八人。――お金を払って、ね」




