第二十話 完璧な微笑
春、盛り。両国親善の大夜会が、王宮の大広間で開かれた。
モルダート事件の解決から一年半。
両国の緊張緩和を祝うこの夜会は、合同監査局にとっては晴れの舞台であり、わたくしとセドリック様にとっては、婚約者として初めて公式に並び立つ夜でもあった。
「エルディア嬢。今夜のあなたの装いに、監査上の指摘事項が一件あります」
「あら、何かしら」
「美しすぎて、私の心拍が予算超過です」
「……その言い回し、ダリオの日誌から仕入れましたわね?」
軽口を叩き合いながらも、彼の腕に手を添えて広間を巡れば、向けられる視線は一年前とまるで違う。
ダルトン夫人の「訂正して回る」宣言は伊達ではなく、貴婦人たちの扇の内から聞こえるのは、嘲笑ではなく、事件簿の噂話だ。曰く、銀食器の。曰く、鑑定書の。監査局の窓口は、今や社交界の駆け込み寺と呼ばれているらしい。
その、和やかな夜気が――広間の入り口から、すっと冷えた。
衣擦れの音さえ計算されたような足取りで、一人の令嬢が入場してきた。白金の髪は一筋の乱れなく巻かれ、菫色の瞳、抜けるような肌。上背はわたくしより高く、立ち姿は彫像のよう。そして口元には、絵画のように美しく――絵画のように、動かない微笑。
隣で、セドリック様の腕が、僅かに強張った。
「……カサンドラ嬢」
「まあ、セドリック様。ご無沙汰しております」
カサンドラ・ヴェルメイユ公女。アルヴェイド四大公爵家の筆頭、ヴェルメイユ家の一人娘。
社交界で「完璧公女」と謳われる方――ということは、わたくしも名前だけは存じている。彼女は完璧な角度の礼をわたくしに向け、鈴を振るような声で言った。
「お初にお目にかかります、グランフェルト公爵令嬢。噂はかねがね。『帳簿の令嬢』のご活躍、我が国の社交界でも持ちきりですのよ」
「恐れ入りますわ、ヴェルメイユ公女。お噂は、こちらこそ」
「うふふ。では、お互いの噂に敬意を表して――回りくどいことは、やめにいたしましょうか」
公女は扇を開いた。動かない微笑の上で、菫色の瞳だけが、硝子のように冷たくわたくしを映す。
「セドリック様を、お返しいただきに参りましたの」
周囲の空気が、音を立てて凍った。セドリック様が一歩前に出ようとするのを、公女は扇の一振りで柔らかく制する。
「あら、セドリック様。殿方のお気持ちの話は、しておりませんのよ。これは政治の話ですわ。――ヴェイル家は我が国の財政の要。その嫡男が他国の、それも監査局長の伴侶になるということが、両国の力の均衡にとって何を意味するか。あなたのお気持ちがどれほど本物でも、天秤の錘としてのあなたの重さは、変わりませんの」
「カサンドラ嬢。その天秤の計算なら、私は三年前にあなたのお父上へ、書面で回答済みのはずです」
「ええ、拝読しましたわ。見事な理屈でした。ですから今日は、理屈を申し上げに来たのではなくてよ」
公女の視線が、まっすぐにわたくしへ戻った。
「グランフェルト嬢。あなたは数字がお得意と伺いましたから、数字で申し上げますわね。ヴェルメイユ家が動かせる縁組の網は両国で百二十家。社交界の季節は、あと二百日。……わたくしは、その全部を使います。あなたが帳簿で王国を詰ませたように、わたくしは社交で、この婚約を詰ませて差し上げますわ。恨みっこは、なしでしてよ? お互い、得意な盤で戦うだけですもの」
宣戦布告を終えた完璧な微笑が、優雅に一礼して身を翻す――その去り際。
楽団が次の曲の楽譜をめくった、ただそれだけの瞬間に、公女の足が、ほんの半歩分、遅れた。菫色の瞳が、譜面台の上を、一秒だけ見つめた。
……あら。
完璧な方の、完璧ではない一秒。わたくしの記録癖が、勝手にそれを書き留める。摘要欄――『要調査。公女と、音楽』。
「エルディア嬢。……巻き込んで、しまいました。彼女の家は、本気です」
「望むところですわ、セドリック様。それに」
わたくしは、彼の腕に添えた手に、少しだけ力を込めた。
「引き裂きに来る方が現れたということは――わたくしたちの婚約が、それだけ本物ということでしょう? 帳簿と同じですのよ。狙われるのは、価値のあるものだけですわ」




