フェンリル派遣要請
ラファエルタイプのネフィリム。
数ヶ月前アメリカで確認されたセラフタイプ、先週日本で確認されたイスラフィールタイプと同じ、上位種だ。
ラファエルタイプの固有能力は、治癒。
元来ネフィリムは、驚異的な回復力を持っている。
それでも、ハルファスたちの振るう剣で傷つけることは可能だし、口径の大きな銃で脳や脊髄を破壊すれば、ネイティブの兵士にも討伐可能だ。
しかし、ラファエルタイプは、支配下のネフィリムがどれほどの傷を負おうとも、砂に変じる前であれば瞬時に肉体を修復してしまう。
ラファエルタイプの群れを形成する個体は、おそらく一般種でも容易に倒せまい。
どれほどの銃弾を撃ちこもうとも、一撃で急所を破壊しなければ、すべてなかったことにされてしまうのだ。そんなゾンビめいた群れの襲撃を受けたなら、フェンリル不在の今、この『ラオデキア』でも持ち堪えられるかどうかわからない。
青ざめた三隅に、宇賀が淡々と告げる。
『昨日未明、『西王母』が堕ちた』
「『西王母』が……ですか」
中国最大のシェルター、『西王母』。
数年前から大規模改修工事という名目で、紫禁城を中心に建設されたそこは、中国政府の中枢を担う者たちが収容されていた。
中国各地のシェルターは、崩壊以前の社会構造の名残ゆえか、意思決定のすべてを『西王母』に委ねていたと聞いている。
世界で三体目の上位種が中国大陸に出現し、まっさきにそこを潰した。
その事実には、何か意味があるのか――。
『あちらの情勢も、たった一日で随分変わったようだな。現在の『崑崙』のトップは、まだ三十代の将校だ。彼は今、給油機に乗ってこちらへ向かっている。同時に、航空燃料を積載した大型タンカーを二隻、『カグヤ』に向けて出港させたと言ってきた』
「……は?」
三隅は、ぽかんと目を丸くした。
『彼は――劉少佐は、一刻も早くラファエルタイプを討伐しなければ、中国全土のシェルターが壊滅的な被害を受けると判断したそうだ。そのため、今すぐフェンリル派遣を要請したいと言ってきている』
「何を、ばかなことを……!」
拓己は、ようやく『ワダツミ』までの旅を終えたばかりだ。
おまけに、覚醒したばかりの第二の人格が、無茶な能力の使い方をしたせいで、心身ともに非常に不安定な状態にある。
そんな彼を、日本よりも遙かに多くのネフィリムが跋扈する中国に送るなど、冗談ではない。
大量の航空燃料は、フェンリル派遣への対価のつもりなのだろうが、その程度のものでアジアで唯一の『人類の希望』を死地に送り出せるはずがない。
思わず声を荒らげた三隅に、宇賀はわずかに声を低める。
『劉少佐は、以上の要請をすべて彼の独断で決定したそうだ。己の上官の首を、文字通りすべて飛ばしてね。液晶画面越しとはいえ、あれだけずらりと生首を並べられると、さすがに気分のいいものではないな』
「な……」
三隅は言葉を失った。
『彼の日本語は、非常に流暢なものだったよ。……その意味は、わかるな? 三隅准尉』
ぐっと、息を呑む。
外交において、最高責任者が直接交渉に当たり、その際に相手国の言葉を使うのは最上級の誠意の証。
――必死、なのだ。
彼らの元には、『人類の希望』がいないから。
崩壊前の世界で、日本と中国の関係は決してよいものではなかった。
数多くの不幸な歴史から生まれた憎しみの火種が、意味のない卑小なプライドを満たすためだけに煽り立てられ、もはや消しようのない悪意の炎となって、人々の心に醜い焦げ跡を残していた。
もちろん、『国と国』ではなく、『人と人』として語り合うことで、穏やかな交流を続ける者たちもいたのだろう。
だが、中国各地のシェルターを統括する『西王母』に所属していたのは、常に『国』を背負う立場にあった者たちだ。彼らが日本という『国』に対し、複雑極まりない感情を抱いていたことは想像に難くない。そしてそれは、各地のシェルターのトップを担う者たちも、そう違わないはずだ。
かつて、アメリカに次いで世界第二位の経済力を誇った彼の国を率いてきたのは、両手で足りるほどの数まで徹底的に選抜された、トップエリートたちだったという。だからこそ、あれだけ巨大な国土を遅滞なく運営することができていたのだ。
しかし、それは同時に、上層部の決定に対し異を唱えるシステムが、ほとんど機能していなかったことを意味する。
中国では、日本よりも遙かに上層部の意思は絶対のものなのだ。下位組織がそれに抗うなど、端から想定されていない。
だが今、その上層部が集う『西王母』が、堕ちた。
上からの押さえがなくなった瞬間、直属の上官の首を飛ばした若き将校の行動が、正しかったのかどうかなどわからない。
ただ、彼は理解していたのだろう。
アメリカ軍の優秀なハルファス部隊でさえ討伐できなかった、ネフィリムの上位種。
中国でそれが発生したときに望みを託せるのは、アジアで唯一発現した人類の希望――フェンリルだけだと。
三隅は、低く口を開いた。
「宇賀陸佐。フェンリルがイスラフィールタイプを問題なく倒せたのは、相手が休眠期に入っていたからです。……我が国の上位種が首都圏で発生していたのは、不幸中の幸いでした」
『ラオデキア』、『アマテラス』の二大シェルターが存在する日本の首都圏は、子どもたちと阻害剤投与者が、最も効率よく回収された地域のひとつだ。
大崩壊当時、すでに『竜宮』の防衛任務に入っていた『ワダツミ』のハルファス部隊が、このときばかりは最低限の人員を残し、実戦投入されたのも大きかったのだろう。
その結果、この地域で発生したネフィリムは初期段階で相当数が討伐され、生き残った個体もごくわずかなエサしか捕食することができなかった。だからこそ、上位種であるイスラフィールタイプでさえ、飢餓に耐えかねて休眠状態に入ったのだ。
たとえ人の手で創り出された化け物でも、獣は獣。
エサを喰らわなければ、生命活動を維持できないのは自明の理だ。
「しかし、中国最高の防衛システムを誇る『西王母』をあっさりと堕としたところから考えても、件のラファエルタイプは飢餓状態とはほど遠いはずです。たとえフェンリルでも、必ず勝てるという保証はありません」
わかっている、と宇賀は応じた。
『三隅。劉少佐は、少し話しただけでも非常に頭の切れる男だ。たかが航空燃料という手土産だけで、こちらがフェンリルを動かすとは考えていないだろう。どうやら彼は、情報収集も得意らしいな。質問ではなく、堂々と確認してきた。――『アマテラス』には、フェンリルの完全抗体では救えない方々がいらっしゃるのでしょう、と』
「……まさか」
思わず目を瞠った三隅に、宇賀はため息混じりの声を吐き出す。
『それ以上のことは、こちらに着いてから話してくれるそうだ。だが、そこまで言われれば、いやでも想像がつく』
中国の『西王母』と同じように、日本の中枢を担う人々が収容されている『アマテラス』。
そこには、日本という国の歴史そのものともいえる血筋を、現代まで連綿と繋いできた人々が収容されている。
だが、どんな運命のいたずらか、彼らが感染しているウイルスは、フェンリルの完全抗体に合致するものではなかった。『アマテラス』が堕ちたときに備え、『カグヤ』に収容されている古き血を継ぐ者たちもまた、それは同じ。
彼らを発症の恐怖から救えるのは、アメリカはワシントンDCのシェルター『スミルナ』に所属する人類の希望、李詩夏――コードネーム『ヴァルキューレ』の完全抗体だけだ。
そして、中国人民の五割が感染しているのが、ヴァルキューレの完全抗体に合致する型のもの。
彼女の完全抗体サンプルが、中国に渡ったという情報は今まで入ってきていない。
だが、もし――。
「――もし、劉少佐がヴァルキューレの完全抗体サンプルを、フェンリル派遣の対価としてきたなら……。どうなさるおつもりですか?」
それを必要としているのは、『アマテラス』に収容された人々だけではない。全国各地のシェルターにも、それを求める者たちは存在するのだ。
とはいえ、この国でフェンリルの完全抗体に合致する型のウイルスに感染しているのは、人口の八割に昇る。
いつこの『ラオデキア』を含め、フェンリルの完全抗体サンプルを保有するシェルターがネフィリムに破壊されてもおかしくない現状、彼を危地に送り出すのは愚の骨頂だ。
そして今、自分たちに必要なのは、命の価値に優劣をつけることなく、ただひたすらに命を数で考えることである。
より多くの国民を――できることなら、より若く健康な者たちを、少しでも長く生き延びさせること。そこによけいな価値観を含ませる余裕など、自分たちには許されていない。
『残念ながら、この件は私の一存で決定するには重すぎるのでね。先ほど、『バエル』に判断を仰いだ』
「……そう、ですか」
淡々とした宇賀の言葉に、三隅は頭をひどく殴りつけられたような心地がした。
ネフィリム対策研究室の最高意思決定機関・『バエル』。
かつてハルファスの『設計図』をG7の上層部に無償で提供し、ウイルス発症阻害剤の基礎を作り上げた彼の組織は、現在地球上で最も発言権のある組織である。
GBに存在する、世界最大のシェルター『エフェソ』がその本拠地だ。
ポーツマス海軍基地を前身とし、質量ともに世界一のハルファス部隊を擁する彼らは、すでにGB本土の南に位置するワイト島からすべてのネフィリムを駆逐したという。
飛行タイプのネフィリム襲撃の危険はいまだ拭いきれないものの、現在ワイト島は世界で唯一、人類がシェルターの外で生きられる場所だ。
『エフェソ』に収容されていた子どもたち。そして『エフェソ』所属の人類の希望、アンドリュー・マクミラン、コードネーム『トール』の完全抗体により発症の危険がなくなった者たちは、ワイト島へと順次移送されたと聞く。
大崩壊の直後、各国で『人類の希望』――ウイルス勝利条件適合者の存在が確認されたとき、『バエル』ははじめてそれぞれの上層部に宣言した。
すなわち、今後の人類の未来を左右する彼らの存在を、『国家』という矮小な枠組みの中に押しこめることは認めない。
『人類の希望』を失うのは、文字通り世界の損失である。彼らの生命に関わる意思決定を為す場合には、必ず『バエル』の承認を得なければならない――と。
具体的なペナルティを示されたわけではないが、ウイルス研究の中枢を担う彼らの宣言に抗える国など、あるわけがなかった。当然ながら、フェンリルの『ワダツミ』派遣も、『バエル』の承認を受けてのものだ。
……『バエル』の最優先命題は、あくまでも人類の存続である。
おそらく彼らは、極東のちっぽけな島国の抱える葛藤など一切斟酌しないだろう。
そして、世界的な視点で命を数で考えたとき、中国と日本ではその差はあまりに歴然としている。加えて、ラファエルタイプはその群れを巨大化させればさせるほど、脅威の度合いが加速度的に増していく。
一刻も早く、確実に討伐しなければ――。
(我々は……これからどれほど、あんな子どもに重荷を背負わせ続けるのだろうな)
――中国からの使者が訪れるのが先か、『バエル』からの判断が下りてくるのが先か。
いずれにせよ、隣国でネフィリムの上位種が発生した以上、すべては遅いか早いかの違いなのかもしれない。
彼の国がラファエルタイプに食い尽くされたなら、その目が次に狙いを定めるのが日本ではないなど、誰にも言うことはできないのだから。




