テュルフィング
現在、ネフィリム対策研究最高意思決定機関、『バエル』直轄の研究室が置かれているシェルターは、世界に七つ。
そのうちのひとつ、『テアテラ』があるのが、ドイツ西部ノルトライン=ヴェストファーレン州、デュッセルドルフだ。
ドイツで確認された『適合者』、ハインリッヒ・ミュラーが収容されているのは『テアテラ』ではない。彼が発現させた異能が、国内最大のシェルターで管理するにはあまりに危険なものだったからである。
一年前、彼は生まれ故郷の小さな街をひとつ、潰した。
ネフィリムも人類も、そこに生きるものすべてを区別なく、立ち並ぶ建物ごとクレーターの底に沈めてしまった。
ドイツ軍のハルファス部隊が、すり鉢状のクレーターの底でひとり座りこんでいたハインリッヒを発見したとき、彼はおとなしく周囲の指示に従い、立ち上がったという。
当時、彼は十六歳。
アッシュブロンドにペリドットグリーンの怜悧な瞳を持つ、理知的な印象の少年だった。
しかし彼は、『テアテラ』への移送ヘリの中から地上に蠢くネフィリムの姿を確認した途端、殺意に吼えた。
シートベルトを引きちぎり、ヘリコプターの扉を蹴り破って宙に飛び出した彼は、けたたましく調子外れの声で笑いながら、力尽きて倒れ伏すまでありとあらゆるすべてを破壊したのだ。
気絶したハインリッヒを回収した兵士の報告を受け、ドイツ上層部は彼の輸送先を『テアテラ』からドルトムントのシェルター、『シュトライヒ』に変更した。そして、その後の検査で、ドイツ国内で生存している人類の六割が、彼の完全抗体により発症の恐怖から解放されることがわかったのである。
ハインリッヒは、非常に大人びた少年だった。
意識が戻ってからは周囲の説明を静かに受け入れ、今後はネフィリムを倒すために己の力を使うと、彼の亡くなった家族に誓った。
彼に与えられたコードネームは、テュルフィング。……持ち主に勝利と破滅をもたらす魔剣の名を彼に与えた者は、すぐにそれを後悔することになる。
四ヶ月のハルファス部隊との合同訓練ののち、実戦投入されたハインリッヒは、三たび大地に巨大なクレーターを刻んだ。
重力を操り空に立ち、彼は自らの視界からネフィリムが存在しなくなるまで一切の指示を受け入れず、すべてを粉々になるまで破壊し続けた。
どれほど厳しい訓練を重ねようとも、まだ心の幼い彼は、ネフィリムに対する殺戮衝動をどうしても制御することができなかったのだ。
――ハインリッヒの異能でネフィリムを駆逐するメリットと、破壊の爪痕が刻まれているとはいえ、歴史ある街並みが跡形もなく消失するデメリット。
それらを天秤にかけたドイツ首脳部は、ハインリッヒの『シュトライヒ』幽閉を決定した。
ネフィリムから――外の世界から完全に隔離し、安全なシェルターの最奥での穏やかな生活を彼に与えたのである。
しかし、目の前で醜悪なネフィリムに家族を、友人を、ほのかな思慕を抱く幼馴染みの少女を食い殺され、彼らの復讐を誓った少年にとって、その生活は拷問に等しかったのだろう。
元来口数が少なく、自己主張の乏しい少年だったハインリッヒは、辛うじて保っていた心のバランスを徐々に崩していった。
否――すでに壊れていた心を覆い隠していた殻が、徐々にひび割れ落ちていった、というべきか。
ハインリッヒは、自らの異能を自覚してからは、それを人類に向けることはなくなった。
彼とともに訓練を重ねたハルファスたちは、献身的に彼に尽くした。
彼もまた、ネフィリムと戦うためだけに生み出されたハルファスたちを、己の同胞として受け入れたのだろう。ハインリッヒが訓練から遠のいても、彼と一度でも接触したハルファスたちは、ことあるごとに彼のもとを訪れた。
健康診断と称してさまざまな検査を行い、そのたび増血剤が必要になるほど血液を抜いていく研究者たちには、次第に嫌悪感を隠さなくなったものの、親しくしているハルファスたちが顔を見せれば笑って彼らを受け入れる。
ハインリッヒは、もう外の世界でネフィリムを殺すことは叶わない。
どれほどの殺戮衝動が胸の内で暴れても、それを正しく解放することは許されない。
そんな彼の代わりに戦い傷つき、それでもなお彼を慕って集まるハルファスたちがいなければ、ハインリッヒはとうの昔に完全に壊れきっていたのだろう。
だがいつからか、すべてを一瞬で破壊できる力を封じたまま、彼は自分自身を壊しはじめた。
不眠、拒食、自傷行為。
常にネフィリム討伐に投入されているハルファスたちは、そんな彼のそばについていることを許されなかった。
『シュトライヒ』の研究員たちは、彼の拘束を決定する。
大量の安定剤を投与し、手足の自由を奪い、二十四時間の監視態勢を敷いて彼の安全を確保し続けた。
ハインリッヒを――ドイツ国内で唯一発現した『人類の希望』を、決して喪わないために。
彼はもう、睡眠導入剤を投与しなければ眠ることもない。
よけいな刺激を与えることを嫌った研究員たちの意向により、ハインリッヒを慕うハルファスたちが、彼に接触することもなくなった。
常に白い拘束衣をまとい、手枷を嵌められ、担当の研究員に付き添われてシェルターの内部を散歩する以外は、ただじっと椅子に座って虚空を見つめている。
その日も、いつもと同じだった。
今の彼は、研究員たちの指示には抗わない。
一時はすぐに吐き戻していた食事も、きちんと食べるようになっている。
だが――。
「……フェン、リル」
白い壁に囲まれた小さな部屋に、ぽつりと響いた小さな声。
それと同時に、ハインリッヒの手首を拘束していた手枷が、砕けて落ちた。手枷に埋めこまれていた安全装置が破壊されたことに反応し、『シュトライヒ』に非常事態を告げるサイレンが響き渡る。
ゆらりと立ち上がったハインリッヒは、駆けつけた研究員たちと、召集されたハルファスたちを振り返った。
「会いに、いく」
周囲の面々が、揃って息を呑む。
ハインリッヒが最後に言葉を発するのを聞いたのは、もう数ヶ月も前のことだ。
人々の驚きなどまったく意に介した様子もなく、彼はゆっくりとペリドットグリーンの瞳を瞬かせた。
「夢じゃ、なかったんだね。……きみたちは、今、そこにいる」
「ハインリッヒ? 何を、言っているの?」
温和な顔立ちの女性研究員が、努めて穏やかにハインリッヒに声をかける。
ハインリッヒは、無表情に彼女を見た。
「フェンリルは、強い。けど、タクミは、ぼくと同じで、まだ幼い。タクミが消えたら、サヤが泣く」
「……フェンリル? タクミ? ――『ラオデキア』の、『適合者』のことかしら?」
そう、とハインリッヒがうなずく。
彼は小さく首を傾げた。
「普通の服と、靴と、日本に行く方法が欲しい」
あまりに突然の要請に、困惑を隠しきれない周囲へ彼は続ける。
「ぼくは今、息をしている。でも、息をしているだけ。ぼくは今、生きていない。ぼくは、生きたい。彼が、生きていろと言ってくれたから」
淡々と告げた彼は、左手を持ち上げた。
手のひらを上にして、軽く握る仕草をする。
ハインリッヒの足下に転がっていた手枷の残骸が、音もなく圧縮されて粉々になった。
「――彼が、正しい力の使い方を教えてくれた。ぼくは、彼らと生きたい」
美しいばかりの宝石のようだった彼の瞳に、少しずつ、しかし確実に意思の光が滲んでくる。
彼は、幼い子どものようにほほえんだ。
「あなたたちは、たくさんぼくの血を持っていった。もう、いいでしょう? ぼくはもう、ここには必要ないでしょう?」
「ハイン――」
呼びかけた研究員に、ハインリッヒはくすくすと笑う。
「ダメだよ。無ー理。あなたたちに、ぼくは止められない。だって、あなたたちよりぼくのほうが、ずっとずっと強いから」
まるで、歌うような口調で言う。
「ねえ、知ってた? ぼくにも、心くらいあるんだよ」
ペリドットグリーンの瞳が、人々を射貫く。
冷たく、傲然と。
「ぼくは、薬漬けであなたたちに血を抜かれるばかりの日々を、生きているとは思わない。ぼくの心も体も、ぼくのものだ。――もう、返してもらう」
ハインリッヒは、そこでようやく自分を見つめるハルファスたちに気づいたようだった。
何度か瞬きして、嬉しそうに笑う。
「アリア。テオ。イザーク。セーラ。ぼくと、一緒に来る?」
「はい!」
迷いなくうなずいた彼らは、『シュトライヒ』のハルファスの中でも、最もハインリッヒと過ごす時間が多かった者たちである。
万が一のときにハインリッヒを拘束させるため、敢えて彼と親交の深かったハルファスたちを召集した研究員たちは、蒼白になった。
いくらハルファスたちがハインリッヒを慕っていても、彼らがともに重ねた時間は、研究員たちと過ごした時間に比べれば遙かに少ない。
ハルファスたちが、親代わりの研究員よりもハインリッヒを選ぶことなど、あるはずがない。
なのに――。
「ハインリッヒ! ハインリッヒ、心配した!」
「なんで……っ、おまえが、こんな、拘束衣……っ」
「……ねえ。誰がきみに、手枷なんてふざけたものを嵌めてくれたの?」
「殺していい? ねぇ、ハインリッヒにこんなことした連中、殺していい?」
――我が子を傷つけられた獣のように、殺気立ってハインリッヒを取り囲むハルファスたちの姿に、研究員たちは慄然とした。
仲間たちを笑って宥めたハインリッヒが、彼らの髪をくしゃくしゃと撫でる。
「大丈夫だよ。みんなのことは、ぼくがちゃんと守るから」
そうして、ハインリッヒは研究員を見てにこりと笑った。
「ねえ。『シュトライヒ』を潰されたくなかったら、ぼくのお願い、聞いてくれる?」




