誓い
フェンリルと夜刀が地下に降りるのと同時に、鎖されていた地上への通路が開かれる。
ふたりの乗ったバギーが地上に出ると、北西の空にぽつんと黒い点が見えた。
レーダーが反応を感知してから今までの間に、もう視認できる距離まで接近していたようだ。
フェンリルが、くくっと楽しげに笑う。
彼の精神の高揚を示すように、夜刀の頬に触れる風がふわりと熱を孕む。
「やっべえ。……超、ぞくぞくする」
「あなたの熱量支配能力の有効半径は、集中力次第と聞いています。今なら、どこまでいけそうですか?」
フェンリルは、オファニエルタイプの群れから視線を逸らさないまま答えた。
「ああ。あの高度までは、ちょっと無理だな。――夜刀。群れと接触したら、先頭の個体を叩け。俺も、すぐに行く」
夜刀は、思わず彼の横顔を見上げた。
「すぐに、とは……あなたは、あの高度まで移動する手段を持っているのですか?」
「いや、俺にそんな力はねえよ。……おーい、沙弥。聞こえるか?」
突然、拓己の妹の名を呼び出したフェンリルに、夜刀は目を丸くした。
フェンリルは、どんどん近づくオファニエルタイプの群れを見ながら、もう一度虚空に向かって呼びかける。
「沙ー弥ー? 寝ぼけてねーで、返事しろ。おまえの可愛い拓己じゃねーが、俺もおまえの兄貴みてーなモンだろうが。……っ、うるっせーな、いきなり怒鳴るんじゃねえよ。あ? 俺だって、好きで目ぇ覚ましたわけじゃねーっての! だから、状況を見ろ、状況を。あのバケモンたちを潰さねえと、おまえの可愛い拓己を可愛がってるやつらも食われて終わりだ。――わかったら、さっさと俺とハインリッヒを繋ぎやがれ」
ハインリッヒ。
夜刀は、記憶の中からその名を探し出した瞬間、息を呑んだ。
――ドイツで発見された『適合者』の名が、ハインリッヒ・ミュラーでなかったか。
たしか彼は、ネフィリムに対する殺戮衝動が暴走し、制御不能と判断されて研究所に拘束されているはずだ。
「ああ? んなこと言ってる場合かよ。そうだ、三十秒でいい。あとは、こっちでなんとかする。……へいへい。ちゃんと伝えておきますよ、お姫さま」
見えない相手との会話をとめたフェンリルが、夜刀を見た。
「止めろ」
主の命令に、夜刀はほとんど無意識にブレーキを踏んだ。
輝く砂を捲き上げ、バギーが止まる。あと一分も経たないうちに、オファニエルタイプの群れが自分たちの直上までやってくるだろう。
フェンリルは、一度息をついて軽く右手を持ち上げた。
彼が、自らの異能を発揮するときの仕草だ。
しかし、その右腕は炎をまとうことはなく――。
「――夜刀。沙弥から、伝言だ。拓己の体を守ってください、だとよ。ったく、あいつは拓己のかーちゃんか」
ぶつぶつとぼやいたフェンリルが、ふっと瞬く。
その瞳が、色彩を変えた。
濡れたような漆黒から、鮮やかなペリドットグリーンへ。
「知ってるか? 夜刀。ドイツの『適合者』の異能は、重力操作。あいつは一年前、自分の家族を食い殺したネフィリムごと、住んでいた街をクレーターに変えた。そのときのショックで、あいつは今も壊れたままだ」
フェンリルは、別人の色に染まった瞳をわずかに伏せた。
「……聞こえてるか。ハインリッヒ。おまえは、何も悪くねえ。いつか必ず、会いにいく。それまで、生きてろ」
そうして彼は、夜刀を見る。
色彩は違っても、ふてぶてしいまでの意思の強さは少しも損なわれていない瞳で。
――ぞくぞく、した。
「飛べ」
「はい」
夜刀の右腕から射出されたアンカーが、群れの先頭をきって飛んでいたオファニエルタイプに突き刺さる。
人のものとも獣のものともつかない耳障りな悲鳴と、高速でワイヤーの捲き戻る擦過音。ほんの数秒で地上から遙かな高みに移動しても、夜刀の血液は問題なく全身に酸素を運んでくれる。
翼を広げた夜刀は右腕にアンカーを回収し、同時に抜き払った剣で、手負いのオファニエルタイプの首を叩き落とした。
その体が砂となって崩れ落ちる前に鋭く蹴り、背後から牙を剥いて飛びかかってきた個体の胴を切り裂く。
軽くその頭上に飛び上がり、首の後ろに刃を突き立てる。
周囲は、見渡す限りの敵影。
けれど――。
「ははっ。やっぱスゲーな、おまえ!」
――夜刀は生まれてはじめて、空を舞っているときに人の肉声を聞いた。
楽しくてたまらないというように笑う彼の人は、夜刀の近くを飛ぶネフィリムの背中を、その両足で踏みしめている。
不気味な目玉模様の白い翼を左手で鷲掴み、肌を刺す冷たい風をものともせずに彼は言った。
「夜刀! 忘れんな! おまえの主は、この俺だ!」
何を今更、と夜刀はあきれた。
襲いかかってくる白い翼をまとめて切り伏せ、主の頭上から急降下してくる鋭い爪をその脚ごと切り落とす。
死ねばすべて砂と変じてしまうくせに、生きている間は赤い血が噴き出すのが不思議だと、いつも思う。
「あなたこそ、忘れないでください。わたしの主は、あなただけだ。――信じなさい。わたしが生きている限り、あなたに傷がつくことはありません」
告げた言葉が、獣の血を持たない彼に届くという確信はなかった。
この吹きすさぶ風とけたたましい羽音の中では、インカムもほとんど役に立たない。
届かなくてもいいと、ただ己自身への誓いにも似たつぶやきに、しかしフェンリルは一瞬驚いた顔をしたあと破顔する。
「この状況で、んなこと言っちゃう!? カッコつけすぎだろ、おまえ!」
「単なる事実です。あなたひとりを抱えてこの場を離脱するだけなら、いつでもできますから」
まさかの敵前逃亡宣言! と、何が楽しいのか箍が外れたように爆笑したフェンリルは、それからすっと笑みを消して右手を掲げた。
「――夜刀。信じてるぜ?」
「はい」
フェンリルが唇の動きだけで、再び命じる。
飛べ、と。
目の前に現れたネフィリムの頭部を斬り飛ばし、その体を踏み台にして高く跳躍する。
翼を広げ、更なる高みまで。
眼下で、漆黒の瞳に戻った夜刀の主が、にやりと笑うのが見えた。
「死ね」
覇王の命令と同時に、空を埋め尽くしていた白い翼たちが一斉に動きを止める。
ぱきん、という小さな音は、どこから聞こえてきたものだったのか。
己が死を迎えたことさえ気づかないまま凍りついたネフィリムたちが、次々に地面に向かって落ちていく。
フェンリルが足場にしていた個体だけが、仲間たちが羽ばたきをやめたことに戸惑うかのように醜い首を廻らせている。
「……お待たせしました」
「おう」
夜刀は、過たず一刀でその首を刎ねた。
フェンリルの体を抱え、剣を鞘に戻す。
耳元で、くくっと小さく笑う声が聞こえた。
「まさか、一日に二度もおまえと飛ぶ羽目になるとは思わなかったぜ」
「はい。わたしもです」
伝わる鼓動。
体温。
互いの生きている証が、たしかに感じられる。
フェンリルが、ふっと息をつく。
「あー……。群れの端のほうにいたヤツ、何体か取りこぼしたな」
「そのために、『ラオデキア』のハルファスたちを、下に待機させているのでしょう?」
いくらフェンリルが細身とはいえ、自分よりも大きな相手を抱えている状態では、夜刀の機動力は激減する。
残った個体に襲われる前に地上に降りようとした夜刀の腕を、フェンリルが軽く叩く。
「ギリギリまで、引きつけろ。連中の意識が俺たちに集中していたほうが、あいつらが撃ち落としやすいだろ」
「……だったら、あなたが堕としたほうが早いのでは?」
自由落下に近いこの速度で下降しながらでは、さすがに集中力に欠けて力を扱いきれないのかと思っていたが、これだけ冷静な判断ができるなら別段問題はなさそうだ。
夜刀の素朴な疑問に、フェンリルは億劫そうに首を振った。
「あー……。無理。ハインリッヒの力、使うの……思ってたより、スゲー疲れる……」
「フェンリル?」
途中から、フェンリルの声が不安定に揺らいだ。
腕の中の体から、力が抜ける。
「わりぃ……夜刀。ちょっと、寝る……。次に、目ぇ覚ましたときは……拓己かも、しんねえけど……」
「――すみません、フェンリル。砲撃が来ます。絶対に動かないでください」
先ほどよりも体温が落ちた感じのする体を、ぐっと抱きこむ。
地上の景色が、見る間に近づいてくる。
フェンリルと夜刀の体ギリギリを掠め、『ラオデキア』のハルファスたちの放った銃弾が、ネフィリムたちの翼を次々に貫いていく。
辺り一面に、白い羽毛が降りしきる。
夜刀のブーツが砂の大地を踏んだときには、白い翼はすべて細かな砂に変わりつつあった。
「フェンリル!」
ぐったりと顔を伏せたままのフェンリルの姿に、悲鳴を上げたのは誰だったのか。
その呼びかけに、フェンリルは小さく苦笑したようだった。
「あー……なっさけねー……」
「フェンリル。オファニエルタイプは、すべて堕ちましたよ」
そうか、とつぶやいたフェンリルが、何ひとつ遮るもののない青空をぼんやりと見上げる。
瞬きをして、夜刀に視線を移す。
「俺が……寝てる間。――おまえは、拓己を、守ってろ」
「はい」
素直にうなずいた夜刀に、フェンリルがわずかに顔をしかめる。
「夜刀……? おまえの、主は……俺だけ、だからな?」
「はい。わたしがともに空を飛ぶのは、あなただけです。――フェンリル」
最初で最後の夜刀の主は、満足そうにふわりと笑った。




