覚悟
そして、何事もなかったかのようにフェンリルと夜刀を順番に見る。
ほっと息をついて、口を開く。
「まあ……ふたりとも、無事でよかった。それにしても、よりによって長谷川くんを連れてくるとは、随分えげつないことをしたね」
『はじめてのおつかい』から帰ってきた幼い孫を褒めるような、ほっこりとした笑顔で言われた言葉の意味がわからず、フェンリルと夜刀は顔を見合わせた。
おや、と渡部が首を傾げる。
「なんだ、知らずに連れてきたのか。彼は、『竜宮』の総合健康管理研究棟、ウイルス阻害剤研究開発チームのリーダーだ。『竜宮』の阻害剤製造プラント運用責任者でもある。――きみがいなくなったら、あちらはさぞ大変なことになるんじゃないかい?」
長谷川は、はあ、と間の抜けた声をこぼした。
「どうでしょう? 阻害剤の製造マニュアルは、すでに確立していましたから……。僕が担当していた住人の処方箋管理が、残ったメンバーに振り分けられると思いますので、多少の負担は増えるかもしれませんね」
「ほほう。きみは、何名分の処方箋を管理していたのかな?」
笑い含みの問いに、長谷川はあっさりと応じる。
「新しい阻害剤の研究開発も進めていましたので、今担当していたのは百八十二名です」
なるほど、と渡部はうなずいた。
「おそらく『竜宮』は、少数精鋭で優秀な研究員ばかりを連れていったのだろう。ちなみに『ワダツミ』の研究員が管理しているのは、平均して六十名ほどの処方箋だ。……ふむ。やはり、今のうちに『竜宮』は破壊しておくべきかな」
まったく冗談には聞こえない口調で言う渡部に、長谷川が目を丸くする。
「は、破壊って、どうしてです!?」
「きみが今、ここにいるからだ」
渡部の静かな声が、妙にはっきりと響いた。
「きみは、『竜宮』におけるウイルス阻害剤の第一人者だった。そのきみがいなくなれば、いずれ阻害剤の管理に不備が出てくるのは、目に見えている。――私は、『竜宮』内部に発症者が出た場合のマニュアルは知らんがね。彼らは、いざそうなったときに、マニュアル通りに対応できる者たちだろうか?」
答えられずに固まったままの長谷川に、渡部は淡々と続ける。
「発症者が一般種だけならば、せいぜい『竜宮』内部の人間が食い尽くされるだけだ。だが、もし中位種、あるいは上位種になる者がいたなら、我々は足下から彼らに食いつかれることになるのだよ」
とん、と渡部の指先が机を叩く。
「もしきみが『竜宮』に戻ると言うのであれば、こちらの潜水艇を出そう。非常脱出艇の射出ポイントを破壊して内部に侵入するのは、おそらく可能なはずだ」
長谷川の膝が、がくがくと震える。
つい先ほど、彼は選択したばかりだ。
フェンリルとともに、地上でネフィリムと戦うと。
だがそれは、『竜宮』に生きる人々の命をすべて切り捨てるのと同義だったのか――。
「……おい、ウラシマ。思い上がってんじゃねーぞ。おまえひとりで、『竜宮』の人間全員の命を背負ったつもりか?」
フェンリルが、ひどく不機嫌そうな声で言う。
腕組みをして、くっと唇の端を吊り上げる。
「まあ、戻りたいなら、勝手に戻れ。おまえの命は、おまえのもんだ。好きに使えばいいさ」
立ち竦む長谷川に淡々と告げ、フェンリルは呆れた顔で渡部を見た。
「性格の悪い中年って、マジでタチがわりぃな」
「あ、ひどいなあ」
わざとらしく目を瞠った渡部は、さらりと続ける。
「まあ、私に『竜宮』破壊の権限はないよ。連結ブロックも破壊するつもりではあったが、正直なところ、あちらが自爆させてくれてほっとしている。データの改竄は、いろいろと面倒だからね」
長谷川の顎が、ぱかっと落ちた。
机の上で指を組んだ渡部は、そんな彼に声をかける。
「安心したかい? 『竜宮』の現実は、私が先ほど言った通りなのだが」
「……っ」
息を呑んだ長谷川に、渡部は告げる。
「きみが戻らなければ、『竜宮』は近い将来必ず滅びる。――しかし、そんなことはこの地上では、さして珍しくもないのだよ」
「え……?」
渡部は苦笑した。
「質量ともに充分な研究員を確保できているシェルターなど、この『ワダツミ』と『ラオデキア』のほかには、霞ヶ関の『アマテラス』と京都の『カグヤ』くらいのものだ。それ以外のシェルターでは、今も多くの研究員たちが心身をぼろぼろにして戦っている。それでもなお、多くの収容者が発症して殺処分せざるをえなかったシェルターは、片手ではきかん」
長谷川の目が、大きく見開かれる。
そんな彼を、渡部は感情の透けない目で見据えた。
「長谷川くん。きみは、人類がネフィリムに食われるという現実を、データ上の数字でしか知らない。私は、この一年を地上の地獄を知らずに過ごしたきみが、これからここで正気を保ったまま生きていけるのか、甚だ疑問に思っている。――『竜宮』が、地上のシェルターと同じ境遇に堕ちることに耐えられないのであれば、今すぐ海底に戻りたまえ」
重い沈黙が落ちる。
ややあって、ようやく長谷川が口を開いた。
「僕、は……」
その声が、震えている。
落ち着かなく何度も指を握り込む仕草をした彼は、手のひらを額に当てて乾いた笑い声をこぼす。
「……すみません。ちょっと――驚いたんです」
顔を上げて渡部を見た長谷川の顔は、奇妙に歪んでいた。
「僕は、自分で思っていたよりもずっと、薄情な人間だったみたいです。……今、なあんだ、って思いました。『竜宮』の人々がこれから直面する危険が、地上では珍しくもないなら――人類として当たり前のことなんだったら、別に大騒ぎしなくてもいいじゃないか、って」
くくっと、長谷川が肩を揺らす。
「この一年『竜宮』で暮らして、思ったことがあります。――海は、すべての生物にとって母親の胎内のようなものです。自らその底に潜った者たちに、未来を語る資格などあるのでしょうか」
渡部が、ふむ、と首を傾げる。
「きみは随分、哲学的なことを言うね」
「とんでもない。情けない後悔に溺れた若者の、ただのばかげた妄想ですよ。……ああ、そうですね。今、わかりました。僕はどうやら、ずっと『竜宮』を憎んでいたようです」
パズルの最後のピースをはめるのに成功した子どものような顔で、長谷川は笑った。
「僕が『竜宮』に入ったのは、僕自身が決めたことです。けれど、彼らが僕に声をかけてこなければ、僕は『竜宮』の存在すら知らなかった。何も知らずに、あなた方と同じように血にまみれながら、地上で人類のために働くことができていたはずだ。子どもじみた責任転嫁です。それでも――」
長谷川が、持ち上げた右手の指を、ぐっと握り込む。
「――僕は結局、研究者として生きることしかできない人間です。そしてすべての研究者の望みは、より多くの人々の役に立つ研究成果を出すことなんです。……渡部海佐。僕は自分自身を、『竜宮』に生きるわずかな人々よりも、地上に生きる大勢の人々のために使いたい」
彼の視線を正面から受け止め、渡部はほほえんだ。
「覚悟は、できたと思っていいのかな?」
長谷川が苦笑する。
「フェンリルは、まるで覚悟のできていない僕を『竜宮』から連れ出してくれたのですが。さすがに、もうそんなことは言えません」
フェンリルが、むっとした顔で口を開く。
「俺と、そのえげつない性格のおっさんを比べてんじゃねーよ。つーか、俺はおまえを『竜宮』から出してやった恩人だぞ。感謝して崇め奉れ」
「はあ。月見団子でもお供えすればいいのでしょうか?」
首を傾げた長谷川に、フェンリルは半目になった。
「ツッコミづらいボケをかますな」
「すみません。精進します」




