疲れた中年には気をつけましょう
六花は即応したが、冬騎は苦しげに顔を歪ませた。
「おまえ、は……本当に、拓己じゃないのか……?」
フェンリルは、ゆっくりと首を振る。
「冬騎。俺は、拓己じゃない。おまえのオトモダチは、そんなに強くないんだよ」
「……どういう、意味だ」
冬騎の声が、震えた。
瞬きもせず見つめる彼に、フェンリルは静かに告げる。
「なあ、冬騎。世界中の『適合者』たちが全員壊れちまってるのに、どうしてこいつだけがまともでいられたと思う? ――心が完全に壊れる前に、壊れかけたところをどんどん切り離していったからだよ。『こんなに怖い思いをしてるのは、自分じゃない。こんなに痛い思いをしているのは、自分じゃない』ってな」
そのとき、ひゅっと息を呑んだのは誰だったのか。
青年は、淡々と続ける。
「俺はたぶん、拓己がこの世界で生きていくために切り離した、壊れかけた心のかけらでできている。曖昧でばらばらだったかけらをまとめて『俺』というカタチにしたのは、おまえたちだよ」
望んだだろう? と笑って。
「どんなときでもネフィリムと臆せず戦う、力強く成長した人類の希望を。そのために、泣いてばかりの子どもに、ネフィリムとの戦い方を教え続けたんだろう。おまえたちが『フェンリル』という名前で呼んだ瞬間、『俺』は生まれた。それからずっと、俺は拓己の中ですべてを見ていた」
「……拓己……は?」
冬騎の声が、一層低く掠れた。
フェンリルは困ったように首を傾げる。
「今の拓己にとって、おまえたちは唯一心を許せるツレと、信頼できる仲間のリーダーだからなあ。そのおまえたちを侮辱されて、キレるだけならまだしも能力まで暴走させそうになってたから、慌てて交代したんだが――。ま、そのうち落ち着いたら、目ぇ覚ますんじゃねーの?」
あっさりと返された言葉に、冬騎はぱっと顔を上げた。
相手に詰め寄り、掴みかからんばかりの勢いで問いかける。
「拓己は、消えたわけじゃないんだな!?」
「ナイナイ。今は、俺の中で眠ってるよ。おまえらをけだもの呼ばわりされたのが、よっぽどショックだったんだろ」
冬騎が、壮絶な殺意をこめた眼差しで尾木を見た。
フェンリルはひょいと首を傾げ、尾木の体を彼の前にぶら下げる。
「殺すか?」
相変わらず、尾木はぼんやりと虚ろな目を開いたままだ。
冬騎は顔をしかめて青年を見上げた。
「おまえ……こいつに、何をした?」
「別に、軽く二、三度体温を下げてやっただけ。さくっと凍らせちまおうか、とも思ったんだけどな。人殺しは、おまえがいやがりそうだったから」
は、と間の抜けた声をこぼして瞬きした冬騎に、フェンリルはにやりと笑う。
「なーんてな。俺は、おまえたちの拓己じゃない。こんなムカつくヤツを簡単に殺してやるほど、優しくねえの」
そう言って、青年は歩き出した。ふと振り返って、冬騎に言う。
「ああ、そうだ。おまえが人間を殺したら、拓己は泣くぞ。それがいやなら、いい子で待ってろ。――行くぞ、夜刀」
「はい」
当然のように夜刀を従えたフェンリルが出ていくと、渡部がどっと応接セットのソファに座りこんだ。ふたりの研究員は、とうに床にへたりこんでいる。
渡部が低くうめいた。
「……『ラオデキア』の。彼は……一体、なんなのかね」
問われた六花は、淡々と応える。
「彼が、ご自身で言っていたではありませんか。――自分はフェンリル。わたしたちが望んだ、人類の希望だと」
「人類の……希望」
乾いた声でつぶやいた渡部に、六花は続ける。
「非常に残念です、渡部海佐。どうやら、わたしたちの守るべき人類と、あなた方が守るべき人類は、まったく違う存在のようですね」
渡部は苦笑して顔を上げた。
「失望したかね。――私を、殺すか?」
「あなたがフェンリルへの敵対行動を取れば、すぐにでも」
なるほど、とうなずいた渡部は、開かれたままの扉に目を向ける。
……もう、何度『竜宮』の安全確保という、ばかげた任務から外れたいと願ったかなど、覚えていない。
多くのハルファスたちを『ワダツミ』に閉じこめ、夜刀から空を奪い、ただ無為に彼らの時間を潰していくしかできない自分自身に、一体何度歯がみしたか。
はあ、と息をついて、渡部は研究員たちを見る。それから再び六花を見上げ、静かに問う。
「彼らに、完全抗体の培養に入らせてもかまわないかね?」
「もちろん、どうぞ。我々は、そのためにここに来たのですから」
我に返った研究者たちが、表情を引き締めて立ち上がる。
彼らとて、完全抗体の存在を聞いて歓喜の涙を流した者たちだ。
この国に生きる人類の多くを、発症の恐怖から解放する。
そんな夢のような計画の一助となれれば、どれほど誇らしいだろう。
完全抗体サンプルを抱えた研究者たちが出ていくと、六花はくすりと笑った。
「これで、何をしようと彼らを巻きこむ心配はなくなりました。あなたの本心を聞かせていただけますか? 渡部海佐」
渡部は少し考え、ゆっくりと口を開く。
「……『竜宮』を、『ワダツミ』から切り離す」
六花と冬騎が、わずかに目を瞠った。
「『ワダツミ』と『竜宮』の連結ブロックには、非常時に備えて自爆装置が仕掛けられている。本来、『ワダツミ』が落ちた場合に、ネフィリムの侵入を阻止するためのものだがね。連結ブロックの自爆後は、『竜宮』のメインコンピュータが地上の安全確認を宣言するまで、こちらからのアクセスを一切受け付けなくなる」
冬騎が皮肉げに唇の端を吊り上げる。
「外の連中が、間違っても『竜宮』に逃げこんできたりしないように、ってか。そこまで徹底してりゃあ、立派なもんだ」
そうだな、と渡部はうなずく。
「連結ブロックの自爆装置は、『ワダツミ』内部のセンサーがネフィリム反応を感知すると起動するよう、設定されている。だが、それも人間が作ったものだ。少々誤作動を起こしたとて、なんら不思議はないだろう」
渡部がふふふ、と不気味に笑う。
「……『竜宮』の自給自足システムは優秀だ。この世の終わりまで金持ちは金持ちらしく、金持ちケンカせずを貫いてもらおうではないか。パンでもお菓子でも好きなだけ食いまくり、みんな仲よくぶくぶく肥え太っていればいい。ちなみに私は、マリー・アントワネットが『パンがなければお菓子を食べればいいじゃない』と言ったのが、後世の者たちによる捏造だと知っている。よって、その点についてのツッコミは控えてもらおう」
据わりきった声と目つきで言い連ねた渡部に、六花と冬騎が顔を見合わせる。
少しためらうようにしてから、六花がおそるおそる口を開く。
「あの……渡部海佐」
「何かね」
「……ひょっとして、相当お疲れでいらっしゃいますか?」
渡部は机の上に肘を載せ、組んだ両手に顎を当てた格好で虚ろな目を遠くに向けた。
『ヴォルフ』の子どもたちが、どん引きした顔で渡部を見る。
「開き直った中年というのは、ときに若者には想像もできない弾け方をするものなのだよ。覚えておきたまえ」
「……イエス、サー」
うむ、と渡部はうなずいた。
「フェンリルと夜刀が戻ったら、連結ブロックを破壊する。あとのことは知らん。おじさん、寝る」




