第131話 森の時間
転移装置を抜け、南の魔物の森へ入ってから、どれくらい歩いただろうか。空はまだ明るい。だが、木々が密になり、足元の土が湿り始めた頃には、光の色が少しずつ変わっていた。森の匂いが濃くなる。草と土と、どこか冷たい水の匂い。
「ここで一度、休憩を取る。水分補給を忘れるな」
引率の教師がそう言うと、生徒たちは一斉に荷物を下ろした。
「レオン、ここまでは問題なさそうだね」
ルシアンが俺に話しかけながら、周囲を見回していた。声は落ち着いている。しっかりと状況を確かめている目だ。
「ああ、まだ森の入口に近いからな。魔物が出たとしても、弱いだろう」
「そうだね」
クリスとウィルが振り返って笑った。
「ふふっ。クリス、辺境伯領のような小川があるといいね」
「うん! 精霊たちにも会えたらいいなあ」
クリスの表情は明るい。この森は広いからな。精霊もいるだろうし、水の匂いからして小川もありそうだ。ただ、迷えば、どれだけ強くても面倒が増える。地形も複雑で、ここまで真っ直ぐに進んできたわけではなかった。
「レオン、僕たちも確認しておこう。ここまでの隊列、崩れてないよね?」
ノアがこちらを見て、軽く首を傾げた。彼は細身で、魔法が得意というだけあって、魔力量は多いほうだ。カイルと幼馴染だと言っていたから剣も扱うのだろう、手のひらには剣ダコがあるようだ。
「ああ。問題ない」
「カイル、後ろは?」
「大丈夫。ラウルとヘンリーがちゃんと見ているよ」
後方にいた二人が、片手を上げて合図をしてきた。頼もしい。……こういう時、貴族の子供たちは“家庭での教育”が出る。皆、遊びではないと理解していることから、とても高度な教育を受けてきたことが分かる。そして、その理解の中心にいるのは――ルシアンだ。
「先生。今日の野営地は、どの辺りでしょう?」
軽い口調で質問しているのに、内容は的確だ。引率の教師は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「今日の野営地は、南へさらに進んだ先だ。川がある。水を確保できる場所が望ましいからな」
「この先の川辺りで野営するんだね、なるほど」
クリスが小さく頷く。
「水があると助かるよね。水魔法を使えない人たちがいても、調理にも使えるし、手も洗えるから便利だよね」
「ふふっ、そうね。野営には、水と火は必須だものね」
アリシア嬢の言葉に、クリスは嬉しそうに笑う。特に何も問題はなく、野営地までは進めそうだ。休憩が終わり、再び歩き出す。森は穏やかだった。鳥の声がする。葉が揺れる。小さな動物が草の中を走る気配もある。魔物の森と言っても、すべてが魔物というわけではない。自然に生きている生き物もいる。
「……あれは鹿かなあ?」
クリスが足を止めず、視線だけを向けた。茶色い影が一瞬だけ見え、すぐに木々の向こうへ消える。
「そうだな」
「本当にいるんだね、自然の動物が」
ウィルが感心したように言う。
「そうだな。ここは魔物も弱い、優しい森だからな」
「あそこのうさぎも魔物じゃないよね?」
「ああ、違う。普通の動物だ」
「すごいね。お祖父様の森には猪ぐらいしかいないのに」
周りの温かい眼差しに見守られながら、好奇心旺盛なクリスの質問に答えて進む。そうして、日が傾く頃。引率の教師が手を上げ、全員を止めた。
「ここを本日の野営地とする。周囲を確認し、班ごとに設営を始めるように」
一斉に、空気が変わる。……ここからは、遊びではない。夜を越すということは、森の“時間”に身を置くということなのだ。
「さて、設営だね」
ルシアンの指示のもと、我々は落ち着いて荷物を取り出した。アリシア嬢も、ノアやカイルたちも、慣れた手つきで進めている。俺はその様子を見守りながら、周囲へ意識を広げる。
「レオン、手伝うよ」
ウィルが言い、ノアとカイルも近づいてきた。
「俺も手伝おう。我が領では、定期的に野営の訓練もするんだ」
「僕は縄が得意。結び方なら任せて」
……頼もしいな。二人からは気遣いが感じられる。まだ体の小さいクリスやウィルをサポートしようと思っていることが窺えた。
「そうか、頼む。俺は周囲を見てくる。無理はするな」
「分かりました。……レオン、あまり離れすぎないでくださいね」
カイルは静かに言う。俺は頷き、ひらりと手を振った。
「ああ。すぐ戻る」
俺は木々の間へ歩いた。足音を殺し、風の流れを読む。匂いを拾う。気配を探る。魔物は弱いと聞いている。だが、森は森だ。何が起きるかは分からない。
……そして、少し離れた場所で、俺は、地面の一部が不自然に抉れているのを見つけた。
「……爪痕?」
木の根元には、何かが擦ったような跡もある。新しい。今日ついたものかもしれない。だが、南の魔物の森の魔物は弱いはずだ。ここまでの痕を残すほどの力があるのか? 俺は目を細めた。
その時――遠くで、低い音がした。風に混じって、森の奥が、ほんの一瞬だけざわついた気がする。
「……気のせいではなさそうだが」
俺は静かに踵を返し、皆の元へ戻る足を速めた。刺激をしなければ、きっと何も起きないだろう。だが――森は、何が起こるか誰にも分からない。俺は、慎重にならざるを得なかった。
いつもお読みくださり、ありがとうございます!




